神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

宗教団体と宗教法人 2つの神社本庁

提訴した時点で

総長選任をめぐる6月14日の東京高裁の判決は「宗教団体だから」というロジックを一切採用しませんでした、今回はその理由について考えたいと思います。

まず宗教法人法85条には、行政や司法には宗教団体の宗教上の事項(教義など)を審判する権限はないと定めています。

したがって裁判所に訴えた時点で、芦原高穂氏は総長選任を宗教団体の宗教上の事項ではなく、宗教法人の規則の問題だと認めたことになります。

宗教団体の総長選任

次に「宗教団体として総長を統理が指名し、その宗教団体総長が宗教法人代表役員に自動的に就任する」というルールを成立させるためには、庁規の側に「宗教団体の指名は宗教法人でも有効である」といった条文が必要です。

言い換えれば、神社本庁憲章と神社本庁庁規が連動していないと成り立たないロジックなのです。

しかし、実際は庁規の側にそのような条文がないため神社本庁憲章を根拠にいくら「宗教団体としての」と主張しても一方通行で成立しません。ちなみに神社本庁憲章も役員会の議を必要としています。

宗教団体が宗教法人になる

宗教団体としての神社本庁と、宗教法人としての神社本庁が併存している。あるいは宗教法人神社本庁のオーナーとして宗教団体神社本庁が存在するという解釈は宗教法人法の趣旨から考えて成り立ちません。

宗教法人法により宗教団体が法人格を付与される訳ですから、宗教法人になっている間は「宗教法人神社本庁=宗教団体神社本庁」です。宗教団体神社本庁は法人格を付与された時点で宗教法人神社本庁になり、法人格がある間は宗教法人法のルールに従う義務を負うのです。

例え話をしましょう。個人事業主であるAさんが事業を法人化して株式会社をつくりました。事業は軌道に乗り、上場もしました。Aさんは自分の子供に事業を継がせたいと思っていましたが、株主総会では別の人間を代表取締役社長にすると決議されてしまいました。これに対し、Aさんが「この会社は個人事業主Aを法人化したものだからAが後継者を指名する」と主張したとして通用しますか?

Aさんのロジックが通用するなら誰も株式を買いません。Aさんには個人事業主として苦労して事業をはじめたという想いがあったとしても、株式会社になった時点で会社(事業)は株主のものになるのです。法人化した後に、法人化する前の論理を持ち出しても通用しないのです。

宗教団体の神社本庁があって、それが宗教法人として認証を受けたのですから、神社本庁の出発点は宗教団体です。しかし、宗教法人として認証された以上、そこに存在するのは「宗教団体としての神社本庁と宗教法人としての神社本庁」の2団体ではなく、「宗教法人神社本庁」だけであり、宗教法人のルールにしたがって運営されなければなりません。

したがって「宗教団体神社本庁」は存在しない、より厳密に言えば「宗教法人神社本庁」に「宗教団体としての神社本庁」が包含されるのです。少なくとも宗教法人としての決定に対し、宗教団体が独立して反抗することはできないのです。

ファシズムか?

レコンキスタ」2023年7月1日号掲載の藤原登氏のコラムで以下のように述べています。

田中執行部は、少数の田中派責任役員によって、神社本庁を独裁的に運営しようとしていることは明らかであり、これは議会の機能を否定するファッショ体制以外の何ものでもない。

「ファッショ」あるいは「ファシズム」という用語を単に「独裁」とか「異論を認めない強権体制」という意味で用いることはありますが、「ファシズム」の訳語として「結束主義」や「全体主義」という言葉があるように「全体をまとめる」という特徴が「ファシズム」にはあります。

つまり「神社界は〇〇を目的に一丸となるべきで、それに対する異論は排除せよ」といった体制を指すのが「ファシズム」本来の用法です。田中氏は「〇〇」に該当するスローガンを掲げていませんので、田中氏を指す表現として「ファッショ」は不適切です。

そもそも「ファシスト」は(特にヨーロッパでは)最大級の侮蔑表現であり、また同コラムの「裁判官が正気だとしたら」も人権の観点から問題のある表現です。議論はすべきですが、意見の異なる相手への敬意は失うべきではありません。

加えて、緊急動議に対して「この動議によって何を求めるか」を明確にする議案審議を行ったことは規則的に認められた合理的な措置であり、討論封じには該当しません。かつ「神社新報」を読む限り田中氏に批判的な評議員ばかりではないことも明らかです。むしろ擁護派から意見が多く出されています。