神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

秀頼の後ろの祭壇は豊国大明神か?

祭壇に祀られるのは

NHK大河ドラマ「どうする家康」第44回「徳川幕府誕生」で徳川家康関ケ原の戦勝報告を豊臣秀頼にしたシーンで、淀殿と秀頼の後ろに祭壇が組まれています。この祭壇が何なのかという質問のコメントをいただいたので、私見を述べさせていただきます。

豊国大明神を祀った祭壇

豊臣秀吉は本人の遺言により神道で神として祀られることになりました。それが豊国大明神です。そのため大河ドラマの祭壇を豊国大明神を祀ったものという推理がネット上で散見されますが、まずありえないことです。

時系列を整理すると、豊臣秀吉が亡くなったのが1598年(慶長3年)8月18日、1599年4月13日に京都の阿弥陀ヶ峰に祀られ、4月16日に朝廷から神階正一位と「豊国乃大明神」の神号を贈られます。大阪城の山里丸に豊国社が創建されるのは1613年(慶長18年)であり、大坂の陣の前年です。この山里丸は大阪城天守閣の横に隣接する場所であり、この豊国社の横にある倉で秀頼ら一行は自害しています。事前に準備していたそうなので、成り行きで山里丸で最後を迎えたのではなく、最後は豊臣秀吉の側で迎えたいという意志があったことがわかります。

大河ドラマの場面は関ケ原の戦いの戦勝報告(この時点で立場上は豊臣秀頼が主君で家康は家臣であり、関ケ原の戦いは徳川VS豊臣ではなく、豊臣家の家臣同士の戦いという扱い)ですから、1600年です。したがって大阪城内の豊国社が創建される13年も前のことであり、豊国社で秀頼と家康が会ったという設定はありえません。

徳川家康の場合、1616年に亡くなって、江戸城の紅葉山に東照宮が建立されたのは1618年です。2年間の空白期間があり、主君の霊廟を歿後すぐに城内に建立せねばならないという風習が当時なかったことは明らかです。

大阪城に正式な豊国社が創建されたのが1613年であって、その前から秀頼らが日常的に父親である豊臣秀吉を追悼する霊舎(一般家庭の仏壇のようなもの)があってもおかしくないではないか、その霊舎の前で政治を行うことで秀吉の家臣が離反するのを防止しようとしていたのではないか、という意見もあるかもしれませんが、その可能性も低いです。まず京都の豊国社、大阪城の豊国社などの豊国大明神の祭祀は吉田兼見神龍院梵舜の兄弟が担っていました。この二人は当時の一流の知識人であり、神道家であって詳細な日記を書き残しています。大阪城内に秀吉の霊舎があったとしたら、その創建および年祭の記録がどちらかの日記に残るはずです。実際に大阪城の豊国社が慶長18年2月27日に遷宮されたことは梵舜の日記である『舜旧記』に記録されています。

大阪在住の神職が担当したという可能性もゼロです。梵舜と吉田家から分家して京都豊国社の神主になった萩原家にとって豊国大明神の祭祀を他の神職に担当されることは一族の衰退、吉田神道のメンツにかかわる危機なので、淀殿が吉田家以外の神職豊臣秀吉を祀ることを命じたら、その神職を社会的につぶすくらいのことはします。吉田家はたんなる吉田神社の神主ではなく、朝廷の公家でもあり、細川家の親戚でもあり、神祇管領長上という室町時代から明治維新まで圧倒的影響力をもった神道家なので、豊臣家も「京都は遠いから大阪の神職に頼みました」なんて言えるほど軽い相手ではありません。

仮に秀頼と淀殿が日常的に追悼するための祭壇を大阪城につくったとして、正式な社殿を建立するまで15年も要するのは不審です。秀吉のために立派な社殿を一日でも早く建立しようと考えるのが当然でしょう。また豊臣家の家臣の結束のために秀吉の霊舎が必要だったとするならば大坂の陣という豊臣家の命運をかけた決戦の前に天主閣の秀頼から秀吉の霊舎を分離させるのは悪手です。

次に大河ドラマの映像を見ますと、豊臣秀頼の座る位置には畳が一枚多くしかれており、祭壇(案)の脚よりも高い位置になっています。豊臣秀吉を祀る祭壇であれば秀頼の畳よりも上に設置すべきなので、祭壇の位置としておかしいことになります。そもそも映像の中の祭壇には神籬または霊代がありません。豊臣秀吉の霊璽、掛け軸、甲冑とか秀吉の魂が宿る依り代がなければ祭祀が成り立ちませんので、この祭壇は何かを祀っているものとは考えにくいセッティングをしています。金色の御幣がありますが、依り代とするならば中央にあるはずなので、御幣を依り代にしている可能性はゼロです。中央の三方に何か物体がありますが、あのように霊璽をあからさまに安置するとは考えにくいですね。

戦勝祝いの儀式のための祭壇

戦国武将が出陣や帰還に際して儀式や占いを行っていたことは戦国時代に関心のある方ならご承知と思います。問題のシーンは徳川家康が豊臣家の家臣として戦勝報告をする場面ですから、戦勝報告の儀式として祭壇を組んだという可能性もゼロではありません。御神酒を授受しているので、儀式用の祭壇だったと考える方が可能性があります。

しかし、このような儀式は複雑で、例えば敵と味方の被害状況によっても作法がかわります。そのため故実に詳しい家臣、あるいは修験者などに儀式のプロデュースと司会、執行を命じるのが一般的です。ちなみにこうした戦場での儀式や占いに詳しい人を軍配者といいます。よく武田信玄が持っている軍配を持つ人のことであって、というのは団扇ではなく、占いの道具です。

戦勝祝いの儀式だとしても、執行者が立って作法をすれば秀頼を見下ろすことになりますので、あの配置は不審です。しかも、祭壇が前に倒れてしまったら秀頼の頭に直撃してしまいます。ドラマの配置は不自然です。

そもそも畳の上で儀式をするのであれば、床の間を活用し、座礼用のしつらえをするはずであり、あのような立って行う儀式用の祭壇を組む必要性がありません。

ドラマなので

ドラマの演出であって目くじらを立てるほどのことでもないですが、ご質問をいただきましたし、秀頼が天主閣で豊臣秀吉を祀っていたという誤った情報が流布するといけませんので指摘しておきます。