神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

神社で半旗はありえないという話

参政党の白ネクタイ

参政党の神谷宗幣氏が靖國神社に参拝する際に白ネクタイを着用して批判している人がいますが、靖國神社に参拝するのに白ネクタイはマナー違反ではありません。むしろ黒ネクタイがマナー違反です。

葬式のときに喪主が黒のリボンまたは腕章をつけることがあります。これを喪章といいます。明治天皇崩御されたときに、政府は「国民は喪章をつけましょう」と勧奨しました。これは強制ではありませんが、半数近い国民が付けていたという当時の証言もあります。

このときに神職から「装束の上に黒い布をつければよいのか?」という質問が全国神職会を通じ内務省神社局に寄せられました。このときに神社局は喪を服したまま神事奉仕はできないから奉仕中は喪を服さずと訓示しました。神明奉仕という使命を果たすのが陛下への忠義であり、喪を服した状態で神明奉仕はできないから奉仕中は喪章をつけるべきではないという理屈です。

靖國神社は招魂社であって普通の神社ではないから他の神社の理屈は通用しない(だから黒ネクタイで参拝するのが正しい)という珍説を唱える人もいますが、別格官幣社です。そのため服喪に関しては別格官幣社のルールが適用されます。

別格官幣社を含む官国幣社以下神社の神明奉仕に際し、喪章あるいは喪を服していることを表す服装(黒ネクタイ)を着用すべきではないのですから、靖國神社へ参拝する時に黒ネクタイがよろしくないのは明らかです。

ただ神道の服喪や内務省の通達を知らない一般の遺族のなかには「戦没者の追悼だから黒ネクタイだろう」と思い込んで靖國神社に黒ネクタイで参拝する人も大勢いました。これは本当はよろしくないのですが、遺族の心情を思うと「あんたら間違っとるで」と注意することもためらわれます。放置していたため黒ネクタイで参拝する人が増え、「靖國神社に追悼で参拝するときは黒ネクタイ」という勘違いが国民に定着してしましました。

戦後80年も経ち遺族会も減っていますので、このあたりで是正した方がよいでしょう。

半旗弔旗

神社は喪を服さないというルールは大正天皇の大喪のときも確認されています。こうした歴史がありますので、神社で半旗や弔旗はありえません。もし半旗や弔旗を掲げている神社があったとしたら、勉強不足だと言わざるを得ません。

そもそも喪に服していたら御祈祷も日々の日供もできません。弔旗を掲揚しながら初宮詣を受け入れるのは矛盾です。ところが「忠良な臣民として率先して喪に服すべし」という感情が暴走して「喪を服したまま神明奉仕はできない」という神道の禁忌に違反してしまう神職が大正時代から一定数います。大正元年に全国神職会から通達を受けてもこれに従わず、全国神職会の役員が独断で通知を出したと陰謀論を唱える者もいました。彼らに悪意はありません。むしろ正義感の強い人々です。ただ知識と冷静な判断力が足らないから暴走し、混乱を巻き起こしてしまう。歴史を学んでいると、いつの時代、どのような職業にも一定数そういう人がいることを痛感します。

喪は重い

神道において喪を服したまま神様に関わることに触れるのは強いタブーです。喪を服したまま神事を奉仕すれば天神地祇の怒りを買う。その報いは神職だけではなく、氏子に及ぶ。世のため人のためにならないことなのです。タブーが緩くなった現代の一般人ですら身内の葬式から神社に参拝するまで一定期間を設けています。今より禁忌に厳しい江戸時代の神職は通夜を弔問したあと自宅に帰らずに外泊した人もいたくらいです。それくらい徹底していました。

ところが今や午前中に葬式を奉仕したあと、午後から平気な顔して社頭で祈祷する神職もいます。境内の一角で葬祭をしているケースもあると聞きます。江戸時代の神職が見たら「この罰当たりが」と卒倒するでしょう。彼らに喪について尋ねるとたいてい「田舎の小さな神社の神職は葬式のあとに祈祷しないとやってられない」とか「神社を維持するためにしかたない」と必死に反論してきます。彼らにとっては大義名分なのかもしれませんが、飲食店の店主が「うちの店にはオレしかいない」と言って釣り銭を握った手を洗わずに生肉や生魚を直に触り、経費削減とか食品ロス解消を口実に前の客の食べ残しをあとの客に提供するのと同レベルの自分勝手な屁理屈でしかありません。神職の都合だけで、神様に対する畏敬の念がカケラもない。

葬儀を奉仕したら当日は通常の神明奉仕はできぬ。これは神道の数少ない禁忌の一つです。その少ない禁忌ですらまともに守れなくなっているから、社頭が衰退していくのです。

週刊新潮の記事について

週刊新潮』(6月12日号)に田中派の多数派工作が功を奏し再任されたという記事が掲載されました。この記事に関連し「週刊誌に多数派工作と書いてあるじゃないか」とか「毒饅頭を食べた神職が多いということだ」というコメントをいただきました。

まず多数工作うんぬんはインタビューを受けた神社本庁関係者の発言部分(「」で囲んだ部分)ですので、週刊誌が多数工派作があったと述べているのではなく、そういう声があると紹介してあるだけです。もしコメントを下さった方が週刊誌が言っているという認識であるならば完全な誤読です。

つぎに当初より私は総長選任は選挙と述べています。選挙なんだから多数派工作は当たり前です。こんなの落選した政治家が当選した議員を「あっちは選挙運動した」と批判するのと同じで、最初に読んだとき「本気で言うてんか?冗談やろ」と思ってしまいました。

多数派工作という表現はマイナスのイメージがありますが、「立候補するんでよろしく」とか頭を下げて回ることはやましいことではありません。どんな団体でもやることです。それを「多数派工作」と言ってしまうところに今回のトラブルの要因の一つがあると思います。

また田中恆清氏を支持した人々に対して、毒饅頭つまり利益供与を受けているんじゃないかというコメントを多く見かけますが、一言言いたい、証拠あんの?証拠もなしに言っているのであれば、それは道徳的にどうなの?

最後に、この記事をネット上に転載引用している神道人もいるようです。この記事が神社のイメージアップになることはありません。それなのにわざわざ引用して拡散するということは「神社本庁を攻撃したい>神社神道のイメージダウンを防ぎたい」という判断をしたということです。私はそれが神社界の自浄の適切な手段だとは思えません。

本願寺派を見習え論について

本願寺派の総長が辞任したことを受けて「総長は門主の親任が得られなければ辞任するものだ。田中恆清も見習え」というコメントをいただきましたが、本願寺派を見習うと統理の指名権も主張できなくなりますよ。都合のよいところだけつまみ食いするのではなく、それぞれの教団の違いをきちんと理解してから理論を立てるべきでしょう。

日本学術会議について所感

日本学術会議の法人化をめぐり上野千鶴子氏が座り込みで抗議したそうです。

このニュースに対し、一研究者としての正直な感想は「どうでもいい」です。ただ日本学術会議がすべての学者の代表のような顔をされるのは不本意です。

もし日本学術会議の会員が「日本国籍と博士号を有し、過去三年度内に学術論文を発表している者」に選挙資格、被選挙権を認めている制度であれば学者の代表あるいは学者の国会を名乗ってもよいでしょう。しかし実際は会員や連携会員の推薦が必要です。この制度だと一部の学閥の既得権益になりやすい。例えるならば今の国会議員が次の国会議員を決めるような制度であり、国会議員の世襲を到底批判できるものではないでしょう。

そもそも採用される保証のない政府への提言に研究時間を削る価値があるとは思えません。そんな暇あるなら時間くれ。読みたい本、書きたい文章がたくさんある。

統理の権威と説明責任

統理の説明責任

前回は指名を拒否したのに、今回の改選で神社本庁統理はすんなりと田中恆清氏を指名しました。この場合、次の3パターンが考えられます。

  1. 田中恆清氏に対する評価を改めた(総長に相応しい人物だと考えを改めた)
  2. 田中氏を総長に指名したくないが、司法が統理の指名権を認めなかったので役員会の議決に従った
  3. その他、田中氏を総長に指名しないといけない理由が発生した

このうち3は合理的理由が思い浮かびません。なので1か2のどちらかになるのですが、今までの経緯から1はないでしょう。そうすると可能性が高いのは2です。

つまり田中氏から地位確認訴訟を起こされた場合に勝算がないからしぶしぶ指名したものと推測します。ただ統理は裁判後も指名権はあると主張してきました。なので統理の指名権はなかったと過去の主張を訂正するか、今回も指名拒否して裁判で指名権の有無を争うかどちらかにしないと言動不一致となってしまいます。

https://jijyo.jp/page.php?id=468

など田中再任を批判する意見がありますが、統理の指名権について有耶無耶にしておいて田中氏再任を批判しても説得力に欠けます。

もし指名権などというものが存在するのであれば、統理には「なぜ田中恆清氏を総長に指名したか」を神社界に説明する責任があります。あと今回は指名書は今回発行したのでしょうか?もし発行していないのであれば、過去の主張と矛盾が生じます。

今後の神社本庁総長指名に関わる問題ですから、はっきりさせた方がよいですし、次の評議員会で統理に問いただすべきでしょう。

統理の権威

よく「統理は摂関家の出身で一流企業の要職も務められた神道の権威である」というコメントをいただきますが、出自や世俗社会での功績は神社神道の権威であることの根拠にはなりません。

次の三者のうち宗教的権威が最も高いのはどれでしょうか?

  1. 信仰に目覚めて出家したばかりの華族
  2. 信仰に目覚めて出家したばかりの大企業CEO
  3. 信仰に目覚めて出家したばかりの東大卒
  4. 平民出身、仏教系大学を卒業後、そのまま僧侶となり、ついに千日回峰を達成した人

私の友人で小学校の校長を定年まで務めた後に地元住民から頼まれて宮司になった人がいます。神職になるために大きな神社で実習をしないといけないのですが、指導担当がかつての教え子でした。小学校の教え子が神職になっていたのですね。そのときに指導担当から「先生は私の恩師ですが、神職としては私が先達であり、実習中は他の20代の見習いと同様の扱いをさせていただきます」と言われたそうです。言われた友人は私に「道とはそういうものだ」とうれしそうに語ってくれました。

剣道でも茶道でも道場茶室には道場茶室のルールがあり、その中に外での立場や出身身分を持ち込むべきではありません。華族であろうが大企業のCEOだろうが、寺に入ったばかりは見習い小僧です。それを貴族様だから、社会的成功者だから特別扱いしていては本人の修行になりませんし、他の修行者に悪影響を及ぼします。

こういうコメントをする神職に言いたいのは、

  • 華族など自分より家柄のよい人が現れたら宮司の地位を譲るのですか?
  • 社会的成功者が退職後に神職になりたいと言いだしたら、すぐ宮司にするのですか?

ということです。そして、このような発想をする神職に対し、社家として格式だけを頼りに神社界を生きてきた人あるいは外の世界でそれなりに成功したのに神社界では思ったような評価を得られず不満を抱いている人なのかな、という感想をもっています。本気で厳しい修行をしてきたなら、それが自信になり、かつ評価基準になるからです。

これは出自や経歴を根拠に統理を権威と仰ぐ神職に対する感想であって、統理ご自身は家柄に驕らず外の経歴を持ち込まず相応の修練をされたものと私は見ています。そうでなければ神宮大宮司は務まりません。つまり見えないところで相応の修練を経て大宮司を務められた方と評すべきであって、家柄や経歴を根拠に統理を持ち上げている人々は、むしろ統理ご自身の宗教者としての修練を軽んじているのです。このように統理支持者を自認する人々には援護射撃しているつもりが足を引っ張っているという行動が散見されます。

怪文書?について

統理選任に反対者が

評議員会が終わりました。今回の評議員会は改選期にあたり、鷹司尚武統理が再任されました。ただ「中外日報」によれば今回は満場一致ではなく、一部反対者がいたそうです。この反対者に対し「統理様に反対するとは何事か」という意見も聞きますが、それは筋違いです。統理は評議員会で選任される役職であり、評議員には反対する権利があります。したがって反対意見を表明した評議員評議員としての権利を行使したに過ぎません。反対意見が自由に出せるという組織こそ健全なのであり、反対意見を糾弾しようとする風潮があるのは組織が硬直化しはじめています。

そもそも3年間に及ぶ神社本庁の混乱の発端は「新総長指名書」であり、統理にも責任の一端があります。また万博で天皇陛下しか著用できない装束をまとった団体が批判されましたが、花菖蒲ノ會会報3号の「統理様を仰ぐといふことは、この「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません」も同じレベルでヤバい問題発言です。私なら恐れ多くてただちに花菖蒲ノ會に撤回を命じます。このように反対する合理的理由が存在します。

怪文書

さて評議員会前に怪文書?斯界に出回る作成者不明の論評?|自浄.jpという文章が関係者に配布されたようです。この文書は神社本庁総務部が作成した「議案添付資料」に対する反論です。しかしツッコミどころ満載です。

まず「信仰的良心から活動している神職たちへの思想的弾圧です」と主張しますが、良心に基づくからと言って言動が正当化される訳ではありません。例えば先の「統理様を仰ぐといふことは、この「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません」も悪気は無いのでしょう。ただ悪気がなくても、失言は失言ですから「君臣の別を知らないのか」という批判は甘んじて受けねばなりません。

次に【2】で「霊性の回復」を統理や花菖蒲ノ會が掲げてきたと主張しますが、こうした表現は人々に「現在の神社本庁霊性が損なわれているから、神社に参拝しない方がいい、厄除けはお寺でやってもらおう」という印象を与えかねません。それは少しでも参拝が増えるように神徳宣揚に苦心している現場(社頭)の神職の足をひっぱるものです。神社界の内部の資料や議論・意見を公開する場合は、「一般の氏子がそれを読んでどう思うか?」まで考えて公開・非公開の判断をすべきです。それができない神職や団体は神社界の足を引っ張るものと評価され、斯界から支持されることはありません。

あと【3】で統理が黙殺と軽視されていると憤慨していますが、総長選任問題で統理に言及しようと思ったら先述の通り統理の責任問題に発展しかねません。「議案添付資料」が統理に言及しないのは統理の無答責の貫徹、あるいは武士の情けでしょう。

【4】で「議案添付資料」を「批判にどう対抗するか」、「自派の正当性をどう守るか」、「敵の影響力をどう排除するか」という批判しますが、そのまま花菖蒲ノ會会報にブーメランで帰ってきます。

総じて「良心に基づいて活動しているのに、なぜ批判されないといけないのか」というお気持ち表明でしかなく、それに対しては「良心に基づいていても言動に問題があれば批判されるのは当然です」としか言えません。

「神社本庁再生への道」52の読後評

最近の号の総評

レコンキスタ」令和7年5月1日号に藤原登氏の「神社本庁再生への道 その五十二」が掲載された。議会制民主主義を成り立たせるのは、規範の順守と自立した代議員の見識である!|自浄.jp

最近の号も目を通していたが、基本構造は同じで「Aは腐っている」と政治団体や政治家(特に兵庫県知事)を批判した後、「Aと神社本庁の構造は同じである」とつなげ、「田中体制を壊せ」という結論へ持っていく。論理的には「Aと神社本庁の構造は同じである」という部分が非常に重要で、どこがどう同じなのかという論証に力を入れなくてはならないのだが、その部分を省略してしまっている。そのため「それってあなたの決めつけですよね?」と某有名人に突っ込まれそうな文章ではある。

今回も同じ構造なのだが、事実誤認が見られるので指摘しておく。

誰がおこした裁判か

藤原登氏は以下のように述べる。

統理から総長の指名を受けていた芦原理事は、自身が総長であるとして判断を司法に委ねたが、宗教団体の内部規範には関与しない司法の判断によって、芦原氏の主張は認められなかった。

しかしながら東京地裁の令和4年の判決には以下のように記されている。

以上のとおり、本件条項は、総長の選任に関し、役員会が議決により次期総長を決定し、それに基づいて統理が当該次期総長を指名することが必要である旨を定めていると解するのが相当であり、これに反する原告の主張は採用することができない。

そうすると、鷹司統理が原告を次期総長に指名したとしても、役員会が議決により原告を次期総長に決定していない以上(前提事実(4)イ~エ、カ)、原告は、総長には就任しておらず、被告の代表役員の地位にはないというべきである(現行庁規7条)。

状況を整理すると裁判をおこしたのは神社本庁ではなく、芦原理事の方である。平たく言えば、芦原理事が統理が指名しているのであるから庁規12条2項に基づき総長に就任したと認めろと地方裁判所に訴え出て、裁判所から庁規12条2項は役員会の議決に基づき統理が指名するという意味だから役員会で芦原理事を総長にすると議決していないのであるから芦原理事は総長には就任していないと否定されたのである。

地裁での敗戦を受けて、芦原理事サイドは戦略を変えて「宗教法人ではなく宗教団体」の神社本庁の統理の指名は役員会の議決に拘束されないというロジックを持ち出して東京高裁で戦ったが、それに対する東京高裁の判断は以下の通りである。

控訴人の主張は、総長の指名を専ら宗教団体内部の問題と位置付ける点において自らの請求内容とも矛盾しており、その前提を欠く。

平たく言えば、宗教団体の内部規範だと主張するなら裁判所に訴えるのは間違っていると痛烈なツッコミを入れられたのである。

このように藤原登の「宗教団体の内部規範には関与しない司法の判断によって、芦原氏の主張は認められなかった」という記述は事実に反する。総長選任は宗教法人の内部規範ではなく、宗教法人の規則の問題として東京地裁・高裁ともに役員会の議決に基づき統理が指名するという判断を下している。

ちなみに藤原登は小タイトルとして「ー神社本庁の「違法状態」は収束するかー」を掲げているが、総長選任を宗教団体の内部規範とする本文の主張と「違法状態」という表現は矛盾する。

ダブルスタンダード

田中恆清神社本庁総長は懲戒処分した職員2名と裁判で争い敗訴した。これに対し藤原登は責任を取らず総長の地位に居座り続けていると批判するが、そもそも判決文は田中恆清に辞任せよと命じていない。

もし敗訴したら責任をとって辞めなくてはならないという理屈なら、芦原理事に対しても同様に辞任を求めないといけなくなる。このように藤原登の主張は明らかなダブルスタンダードである。

アンチ田中派の主張を見ていると、最初は庁規12条2項の宗教法人の問題として裁判所の判断に委ねておきながら、負けそうになると「宗教法人ではなく宗教団体」の問題であるから宗教団体の内部規範に司法が介入すべきではないと言い出し、敗訴したあとは評議員会で決めろと主張する。およそ司法を尊重しているとは言い難い意見が見受けられる。田中恆清氏を引きずり下ろすことができれば理屈はどうでもいいのかという印象さえ受ける。

北風と太陽

裁判が終わったのだから主要人物はそろって本庁・都道府県神社庁の役職を退き、役員の世代交代を図ればよいものの、アンチ田中の主要人物が役職に留まり、さらに裁判が終わっても藤原登のような批判を繰り返す勢力があると、田中恆清氏としても自己防衛のために留任や田中支持者の役員就任を考えるだろう。童話の北風と同じである。