神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

外苑は社会的共通資本ではない

明治神宮外苑再開発の続報

東京地裁は2026年5月12日、東京都新宿区が明治神宮外苑の樹木伐採を許可したのは違法だと主張した住民82人の訴えを却下しました。

樹木伐採、取り消し認めず 神宮外苑再開発、住民敗訴(共同通信) - Yahoo!ニュース

この問題については本ブログでも何度も論じてきましたが、判決が出たこともあり、もう一度振り返ってみたいと思います。ただ前のブログと同じ内容ではつまらないので、中心的な再開発反対論者である石川幹子氏の『緑地と文化-社会的共通資本としての杜-』(岩波書店、2025年)を批評してみたいと思います。

著者の石川幹子氏は1948年宮城県生まれ、東京大学農学部卒業、ハーバード大学デザイン学部大学院修了、東京大学名誉教授、中央大学研究開発機構教授、農学博士です。主著に『都市と緑地』(岩波書店、2001年)、『グリーンインフラ』(中央大学出版部、2020年)があります。

新書において石川幹子氏は外苑を社会的共通資本と位置づけ、公園に準じた扱いをすべき、すなわち明治神宮が独断で開発を決定できるものではないと主張するのですが、この「外苑は社会的共通資本」というロジックは道徳的にも、学術的にも否定されるべきものです。

ドラえもんの空き地は公園か

マンガ『ドラえもん』には土管の置かれた空地が登場し、そこでのび太くんは友人と遊びます。空地は少年少女にとって、まるで公園のような場所です。しかし、現代で土管の置かれた公園を見かけることはありません。なぜでしょうか?

『ドラえもん』は1969年に連載が開始されました。当時の日本は下水道が整備される途中でした。その下水道の資材こそ、のび太くんが隠れ、ジャイアンが上に乗ってリサイタルをする土管です。この土管の所有者は下水工事の業者です。そして土管が置かれた空地は基本的に私有地でした。工事業者が近隣住民の空き地を借りて、一時的に資材置き場として使用していたのが、土管のある空地なのです。下水が急速に普及した時代には土管のある空地は良く見られた光景でしたが、普及し終わったため見られなくなった。そのため現代では土管のある空地を見かけることはありません。

さて、のび太くんが大人になってしずかちゃんと結婚し、息子のノビスケが小学生になったとき、空地の所有者がそこにマンションを建てると言い出したとしましょう。大人になったのび太くんはジャイアン、スネ夫と協力して反対運動をおこし、空地を準公園とする要求を土地所有者に飲ませて、少年時代の思い出の場所、子供たちの憩いの場を守ることができるようになりました。

このストーリーは子供にとっては美談に見えますが、大人の視線から考えれば自己中心的で非道徳的な話です。なぜならば土地所有者のコストとリスクをまったく考慮していないからです。土地所有者は固定資産税や相続性を支払っています。『ドラえもん』の舞台は練馬区ですから、かなりの額になるはずです。こうした維持コストを所有者に負担させながら、使用させろと主張するのは「フリーライダー」でしかありません。もし劇中で空地が閉鎖されることになったら、のび太くんは泣き叫ぶかもしれませんが、のび太くんの父母は「しかたないさ」と諦めるように促すと思います。それは両親は大人で、土地所有者の負担を理解しているからです。

またノビスケが土管の上で遊んでいて、土管が倒れて重症を負ったらどうなるでしょうか?2本の土管の上に1本置いただけで固定していない状態は決して安全とは言い難いものです。そうした事故のリスクがあります。この事故の責任を土地所有者に請求するのでしょうか?現代においても資材置き場はありますが、そこは子供に開放されていません。危険だからです。『ドラえもん』が連載開始された時代はそうした安全配慮が徹底される前だったのです。

明治神宮のコストとリスク

外苑は収益事業を行っているので課税対象です。さらに設備の維持管理費は明治神宮が負担しています。明治神宮は外苑の維持コストを負担しているのです。そして将来的な倒木や枝の落下といった危険防止措置の義務も負っています。その外苑を社会的共通資本と位置付けたいのであれば、まずコストとリスクを共有化することからはじめなければなりません。

外苑の維持管理に関するコストとリスクを明治神宮に負わせたまま、これを社会的共通資本として位置付けるのは、明治神宮から搾取し続けることを意味します。搾取構造を肯定するロジックは非道徳的であり、明治神宮の負担するコストとリスクに気が付けないのは学術的洞察が不足しています。マルクスを研究している斎藤幸平も外苑をコモンズだと主張していましたが、再開発反対派が明治神宮にしようとしていることは19世紀の資本家が労働者に対して行った搾取構造のおしつけでしかありません。それはマルクスが批判していたことではないでしょうか。外苑がどうやって維持されているかを洞察し、そのコストを支払っている明治神宮だけではなく、維持管理に従事している人々の労働、常連の利用者などの存在にまで目を向けるのが、マルクス主義・反マルクス主義を問わず学者や知識人の洞察だと私は考えます。

あと明治天皇を御祭神として崇敬し、聖徳を称えるのが明治神宮創建の根本精神です。敬神尊皇、「天皇陛下万歳」の精神とも言えます。外苑を社会的共通資本と位置付けることは、外苑に込められた敬神尊皇の精神も社会的共通資本として位置付けるのでしょうか?石川氏の新書ではその点について言及がありません。

「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックは神社本庁を崩壊させる

宗教団体としての神社本庁

「宗教団体神社本庁の正常化を求める会」が「統理および総長の地位に関する提言」という文書を評議員に送付したそうです。コピーをいただきましたが、この団体の所在地、代表者氏名などは書かれていませんでした。団体名が示すようにこの提言の根幹は総長の指名をめぐる一連の訴訟で主張された「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックです。結論から申し上げますと、「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックは裁判では通用しないし、神社本庁の秩序を崩壊させるものです。今回はその点について論じていきたいと思います。

まず、この提言のなかで、芦原氏の地位確認訴訟の結果について元裁判官、学者、弁護士といった有識者にコメントを求め「第三者の法律専門家の意見」として4頁にわたり主張しています。ただし学者・元裁判官・弁護士の名前は伏せられており、しかも有識者のコメントをそのまま掲載するのではなく、提言の執筆者が要約したものとなっています。評議員に自己の主張の正当性を訴える根拠として、有識者にコメントを求めたのでしょうが、この記述方法では根拠として無意味です。コメントはありのまま掲載する、今回のケースのように匿名の場合でも「元裁判官」など誰のコメントかなるべくわかるように記述する、これは基本中の基本です。その基本ができていないので、この提言は「有識者の意見を聞いたのかもしれないけど、執筆者の意見になってしまっていますよね」と評価せざるを得ません。

そもそも、どれほど権威のある学者・元裁判官・弁護士の法解釈であったとしても、司法において最も尊重されるのは裁判所の判断です。東大法学部で一番偉い憲法学者が違憲だと言っても裁判所が合憲だと判決を下したのであれば、それは合憲なのです。そして総長の指名ついて裁判所は庁規だけではなく、神社本庁憲章や「神社本庁役員その他の機関に関する規程」なども検討した上で、統理の自由裁量による指名権はないと結論付けた。この結果は覆りません。

宗教団体と宗教法人法

個人事業主として和菓子屋を営むAさんが株式会社を設立したとします。このときに保健所の許可、取引先との契約は自動継続せず、改めて取得・締結する必要があります。Aさんの赤字も法人には引き継がれません。Aさんの所有する道具や設備は法人が買い取る形で会計処理されます。個人としてやっていた事業を新設された法人が買い取る・譲り受けるのが、個人事業主から株式会社への法人成りであり、個人と法人に連続性・同一性はありません。法人成りすると同時に個人事業主としては廃業届を出すのが一般的ですが、本人が望めば個人事業主として事業継続することも可能です。そのため一般に売れない特殊な菓子を株式会社としては製造中止したが、社寺のお供え物として必要なのでAさんが個人事業主につくって販売するということは可能です。このように株式会社と個人事業主は並存することは可能ですが、組織・会計はきちんとわけなくてはなりません。株式会社で仕入れた材料で菓子を製造販売し、個人事業主の収入にしたら業務上横領になります。

株式会社と個人事業主は並存が可能ですが、宗教団体が宗教法人になるのは法人格の付与であって同一性と連続性があります。つまり個人事業主Aさんが和菓子製造販売の株式会社という別の存在を設立するので、個人事業主と会社が同時に存在することが可能なのに対し、宗教団体と宗教法人は同一の存在ですから並存することは不可能です。

どうしても「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックを成立させたいのであれば、宗教団体と宗教法人の同一性を否定しなければなりません。つまり宗教団体に法人格が付与されたのではなく、宗教団体が宗教法人を設立して宗教活動を継承させたという解釈です。この解釈に基づくと連続性が否定されるので、「宗教法人〇〇神社」の歴史のスタートは法人になった時点となってしまいます。なので宗教団体と宗教法人は連続性・同一性があるという解釈を否定することは社寺の由緒を損ねます。

「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックに基づき、統理が宗教団体として田中恆清氏とは別のA氏を総長に指名したとしましょう。宗教団体と宗教法人に同一性はないので、宗教団体の総長と宗教法人の総長は別物です。別物ですから宗教団体の総長であることを理由に宗教法人の総長の地位を求めることは不可能であり、活動するにしても組織・会計も別にしなくてはなりません。神社本庁の職員は宗教法人から雇用されていますので、宗教団体総長は職員に対する命令権を持ちません。職員に働いてもらうには宗教法人だけではなく宗教団体の職員としても働くという合意が必要です。また宗教団体の費用を宗教法人から支出するのは横領になってしまいます。そして指揮命令系統が2つになるので教団運営は混乱します。このように「宗教法人ではなく宗教団体として」は、神社界を混乱させるだけで、A氏を宗教法人の総長に就任させるためのロジックにはならないのです。

本庁の存在を否定するロジック

もし神社本庁に「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックが認められるのであれば、すべての神社にも同じロジックが認められるようになります。そうすると「宗教法人〇〇神社としては神社本庁に包括されているが、宗教団体〇〇神社としては包括関係にないから神社本庁に従う必要はない」と神社本庁の承認・任免を無視した運営・人事も認められることになってしまいます。

不適切な人物が宮司に就任しないようにするために統理の指名権があるのだと主張する人もいますが、この主張と「宗教法人ではなく宗教団体として」というロジックは矛盾するものです。矛盾しているにもかかわらず、同一人物がこの2つを主張しているケースが見られるのは不思議でなりません。不思議と言えば、統理の名で派遣された特任宮司に抵抗して離脱した神社の関係者が、統理の指名権を主張するという矛盾も見られます。あと鶴岡八幡宮は離脱の理由に統理の権威をないがしろにしていることを挙げていましたが、それならば将来的な宮司交代等に際し「宗教団体神社本庁」に具申をするのでしょうか?このように不思議な点が多々見受けられます。

「宗教法人としての神社本庁のほかに宗教団体としての神社本庁がある」というロジックは同一性の否定の上でしか成り立たないのであり、それは神社の由緒を損ね、神社本庁の秩序を崩壊させるだけで何のメリットもありません。神社本庁が宗教団体になるのは、宗教法人を解散したときです。昭和55年評議員会議決「神社本庁役員その他の機関に関する規程」が宗教団体としてのルールであるならば、それが有効になるのは宗教法人として解散した後になります。つまり「解散せざるを得ない状態になったときに備えてつくった規程」であり、神社本庁が宗教法人である間は休眠中と解釈するのが妥当です。そういうつもりで決議したのではなく、もし宗教法人法から逸脱を目指して、この規程を議決したのであれば、それはコンプライアンス軽視として非難されてもしかたありません。宗教法人である以上は宗教法人法を守る。宗教団体であっても日本で活動する以上は日本の法令を遵守する。それが法治国家です。

喪中の神棚

家での神棚へのお供えも、納骨くらいまで(お墓をまだ買っておらず、いつになるかわかりません)控えた方がいいでしょうか?

上記のようなご質問を頂戴しました。神葬祭の作法や信仰は地域によって異なります。作法などを統一していない訳ですが、それは怠慢ではなく、各地域の信仰を重んじるという立場からです。

しかしながら、ご家族がお亡くなりになったら神棚の前を半紙で覆い隠す「神棚封じ」を行うのが一般的です。そして忌明けをしたら封を解きます。忌明けは神道では50日祭の翌日、仏式では49日法要の翌日が一般的です。

結論から言えば、49日法要までは神棚へのお供えを控えた方がよいでしょう。49日法要や50日祭に合わせて納骨をする地域も多いですが、100日や1年以上後に納骨をする地域もあります。そうした地域では納骨より忌明けが先になることがあります。

納骨が後になったとしても49日法要までは神棚へのお供えは控えた方がよいでしょう。

都神社庁の和解の不自然さ

都神社庁の和解

東京都神社庁とN氏の和解には不自然な点があります。

都神社庁の元主事補であったN氏は都神社庁と当時の庁長であった小野貴嗣氏をパワハラと名誉棄損で訴えました。

都神社庁に対する訴えは、原告が、都神社庁に対して、代表役員であった被告がした行為(パワーハラスメント)は、都神社庁の職務の遂行にあたり行われたものであるとして、宗教法人法11条1項に基づいて損害賠償請求するとともに、都神社庁が本件記事を掲載したことについて、本件記事が原告の社会的評価を低下させ、その名誉を毀損するとして、不法行為に基づき損害賠償として 100万円及びこれに対する遅延損害金の支払並びに原状回復措置として謝罪広告の掲載を求めたものである。

その小野貴嗣氏が退任し、松山文彦氏が庁長に就任すると都神社庁はN氏と早々に和解しています。

当裁判所は、令和7年6月30日、本訴事件について、原告及び都神社庁関係の口頭弁論を分離し、原告と都神社庁間において、同日、訴訟上の和解が成立した。当該和解の内容は、都神社庁が原告に対して解決金80万円を支払い、本件記事に関して、被告の本件発言及び前副庁長の発言をそのまま掲載したことに都神社庁として遺憾の意を表明する旨の記事を、都神社庁の機関誌に掲載するというものであった。(顕著な事実)

これは「訴訟上の和解」ですから、都神社庁が80万円を支払い、機関紙に記事を掲載する条件でN氏が請求を放棄するという内容の「和解調書」がつくられたものと思います。この80万円について「和解金ではなく、早期解決金だ」という意見を頂戴しましたが、解決金は実質的に和解金や示談金は同じ「和解の条件として支払うお金」です。訴えられる前に解決するならともかく、訴えられたあとに「早期解決金だから和解金と違うんだ」と主張するメリットがありません。

和解にメリットはあったか?

法的トラブルで和解するメリットは、①判決で支払いを命じられる賠償金よりも安く和解する、②早く解決することで精神的・時間的・経済的(裁判費用)負担を減らす、③訴えられる前に和解することで世間体を守るといったものです。今回のケースではすでに訴えられて新聞記事にもなりましたので③のメリットは消滅しています。

そうすると②早期解決によって神社庁の精神的・時間的・経済的(裁判費用)負担が軽減されるというメリットと、①の賠償金を減らすメリットが残ります。注意しないといけないのは、勝てる裁判なのに①②のメリットのために和解する人はまずいないということです。このまま裁判しても負けると予測できるから、相手と和解交渉するのであって、勝てる裁判なら絶対に和解しません。

そのように考えると、都神社庁の和解の時期は不自然です。裁判所は小野氏のパワハラと名誉毀損を完全に否定しました。裁判所がここまで断定するということは、かなり決定的な証拠が出されたということであり、それは判決文からも窺い知れます。そして都神社庁とN氏が和解した令和7年6月30日は、すでに裁判提起から半年以上が経過していた時期ですから、双方が主要な主張や証拠を出し終えていたはずです。神社庁も訴えられているので、小野氏の証拠を松山執行部や担当弁護士が把握していないということはありえません。そうすると証拠を見ながら負けると判断ミスをしたか、あるいは勝てる見込みの裁判だと理解しつつ何らかの理由で敢えて和解したかという疑義が生じます。

仮に6月30日の時点で証拠が出されていなかったのであれば、証拠が出るまで待てなかったのは何故かという別の疑問が生じます。この説明は担当弁護士を役員会に呼ぶのが手っ取り早いでしょう。

いずれにせよ小野氏が勝訴したことで、和解の正当性は大きく揺らぎました。「和解せずに裁判を続けていれば勝てたじゃねーか!」と思うのが一般的な感覚でしょう。和解するという判断を下した松山庁長には、その判断の正当性および上記のような疑義について神社庁関係者に説明する責任があります。

訂正文?

都神社庁は『東神』(令和7年8月号)に次のような文章を掲載しました。この文章はN氏との和解で掲載することになったものであることは小野氏の判決文に確認できます。

昨年8月20日号東神の一部記事の表現についての見解

2ページ目の定例協議員会での質疑応答の文面の中で、前庁長、前副庁長の発言をそのまま掲載したことに庁として遺憾の意を表明します。庁内で発生した元主事による横領事件を明らかにした元主事補に対して誤解を招きかねない箇所がありました。今後は記事の掲載に当たって、このようなことがないように留意してまいります。

                              以上

これを読んで非常に読者を小馬鹿にした文章だなと思いました。定例評議員会を報告する記事に「誤解を招きかねない」表現があったのであれば、それはどの箇所で、正確には何であったのかを示すのが読者(主に都内神社関係者)に対する最低限の礼儀です。前庁長、前副庁長の発言を不適切だとして否定するでもなく、訂正する訳でもなく、ただ「誤解を招きかねない」とだけ述べるのは読者を混乱させるものであり、読者への敬意をまったく感じられません。

加えて『東神』(令和6年8月号、2p)に掲載された正副庁長のN氏に対する発言については小野氏の裁判で名誉毀損にあたらないと裁判所は判断しています。

本件摘示事実のうち「原告が内部情報を漏洩した」とする点は、上記2で検討したとおり、原告は内部情報である本件通帳のコピーを、外部の者である国会議員の秘書らに送付したことが認められ、これは内部情報の漏洩と評価すべき行為であると認められるところであり、本件摘示事実のうち上記事実は真実である。

加えて裁判所はN氏の行為を服務規程違反だと断じています。

原告は、外部の者である国会議員の秘書らに、本件通帳のコピーを、マスキングなどはせずに、PDFファイルのデータでLINEに添付して送付しており、原告の行為は、都神社庁の就業規則に定める服務規律に違反する行為(業務上知り得た秘密を、他に漏らすこと)に当たるというべきである。

正副庁長が職員の服務規程違反とその対応について協議員に報告することは当たり前のことです。むしろ報告しなかったら、それこそ隠蔽です。

松山執行部による『東神』(令和7年8月号)の「見解」は何を言いたいのかわからない文章ですが、「真実をそのまま掲載するのはおかしい、これからはやらない」と受け止められかねない文章であり、正確な意図を紙面で補足説明する必要があります。

正直なところ「見解」は撤回しないとまずいと思います。なぜならば裁判所が真実であるとした内容について、しかも職員の服務規程違反という都神社庁として報告せねばならない事項について実質的「謝罪訂正文」を掲載したことは、情報漏洩という服務規程違反を隠蔽しようとしていると非難されてもしかたありません。かといって和解に基づき掲載した文章ですから都神社庁の独断で撤回もできない。都神社庁で和解を提案し、推進した人物の責任は重いでしょう。松山執行部にしてみれば、N氏が控訴して情報漏洩と断じた一審が覆るしか「見解」を正当化する手段がありません。

庁報への掲載は必要だったか

名誉毀損の場合、絶対に訂正記事を掲載しなくてはならないと思い込んでいる人も多いですが、損害賠償を支払うだけで訂正記事は不要という判例もあります。法律上も訂正記事など名誉回復措置は義務化されていません。裁判所から命じられない限りやらなくてもいいのです。

このように時期や和解条件から考えて松山執行部は勝訴できる状況なのに、不利な条件で和解したと言わざるを得ません。

見舞金は支出済

解決金80万円をN氏に対する見舞金と位置付けることは不可能です。なぜならば見舞金はすでに支出されているからです。

N氏は令和4年12月27日に心療内科で診察を受け、適応障害と診断され、「令和5年2月28日まで休職、自宅療養が必要である」との診断を受け、診断書を取得しています。しかし、都神社庁に出勤しなかった期間は令和4年12月26日から令和5年10月31日(退職日)までです。こうした場合、休職を延長するために3月1日以降も休職が必要であるとする診断書および休職のための手続きが必要です。

判決書を読みますとN氏は欠勤となっていました。休みと給与の関係ですが、まず有給休暇の場合、給与は支払われます。次に休職や欠勤は「無給」が原則ですが、職員の福利厚生のため休職だけど特別に給与を支給する病気休暇制度・育児休暇制度を設けている職場もあります。これは各職場の就業規則に定められています。N氏のケースでは欠勤ですから本来は無給なのですが、都神社庁は恩恵的な見舞金の趣旨で1,165,195円(雇用保険料及び源泉徴収税額を控除後の金額は985,422円)を特別に支給しています。欠勤を休職として認めるといった措置は①雇い主からの温情、②労働裁判を避けるといった理由で広く行われているものです。労務士や弁護士も10人中8、9人は支払った方がよいと勧めるのではないでしょうか。なぜならば状況的に考えてN氏から給与未払いで訴えられていた可能性は高く、労働者の保護が叫ばれている状況下でこの労働裁判に勝てる見込みは決して高くなかったからです。ただ世の中には意に沿わぬ退職をする職員に対し嫌がらせをする経営者もいます。そのため休職扱いをしたことから小野氏が冷静かつN氏に対し温情的な判断をしていたことが窺い知れます。

原告の主張によれば「被告のパワーハラスメントにより、精神的に大きなショックを受け、心身の調子を崩してしまい、日常生活に支障を来し、一日のほとんどを寝込むようになった」N氏でしたが、都神社庁を欠勤(休職)していた間に快方に向かったようです。令和5年6月に港区が開講した介護に関する養成講座及び渋谷区が開講した介護に関する研修を受講し、同年9月までに、介護職員初任者研修を受講したことが判決書で確認できます。退職についても判決書によれば令和5年8月2日に都神社庁で受けたヒアリングを受けた際には「まとまった金銭の支払いがなされるのであれば、都神社庁を退職することも検討している」と述べ、10月に退職届の郵送に至りました。

説明責任

このように80万円での和解は早計だったと言わざるを得ず、見舞金など代わりの根拠も見当たりません。そのため和解を決定した松山執行部には説明責任があります。また「見解」については庁報として正確な情報を関係者に周知することを否定しかねない文言であり、撤回などの措置が求められるところです。そして松山氏は百合丘職舎売却の妥当性を追求してきたのですから、都の神社関係者から説明を求められる前に自ら説明すべきでしょう。もし説明を回避するのであれば、百合丘職舎売却を追及していたのは何だったのかという話になってしまいます。そうならないためにも『東神』などで明瞭かつ堂々たるご説明をいただければと思います。

都神社庁のパワハラ裁判の結果

東京都神社庁でのパワハラ疑惑

本件は東京都神社庁の主事補であったN氏(原告)が東京都神社庁長であった小野貴嗣氏(被告)からパワーハラスメントを受けたとして訴えた事案です。ちょうど東京都神社庁の役員改選の時期でもあり、この裁判は都神社庁の役員人事に大きな影響を及ぼしました。

原告の主張

まず原告の主張を判決書から見ていきましょう。事件の発端は都神社庁のM元主事による横領にさかのぼります。M元主事は令和2年から令和4年にかけて神社庁の預金口座から個人口座に合計2580万円を送金して横領を行いました。ちなみにM主事は発覚後、令和4年12月までに全額を神社庁に弁済し、令和5年4月19日に懲戒解雇されています。この横領に気付いたのがN氏であり、令和4年12月16日に小野前庁長に報告しました。そのときの庁長の反応から「横領について適切な処分、対応がされないおそれ」を抱いたN氏は横領の証拠となる通帳のコピーを議員秘書3名に送付しました。通帳のコピーを部外者に開示したことを知った小野庁長は「大きな声で激しく叱責し、自身の手で机を何度も強く叩いた」上で、N氏に対し始末書を書くことを求めました。この「被告による威圧的態様による叱責及び始末書の作成の強要」により精神的ショックを受けたN氏は「日常生活に支障を来し、一日のほとんどを寝込むようになった」。令和4年12月27日には適応障害であると診断され、「最終的には、都神社庁を退職せざるを得ないところまで精神的に追い詰められた」というのが原告のN氏の主張であり、この精神的苦痛に対する慰謝料として400万円、治療費等で79,570円の合計4,079,570円を小野氏個人に請求しました。

以上はあくまで原告の主張であり、これを裁判所がどう判断したかをみていきましょう。

隠蔽はあったか?

この判決を東京新聞(令和8年3月29日付朝刊)は「元幹部の不正を前庁長に報告した後、事態の隠蔽を懸念して、友人関係にある国会議員秘書ら3人に通帳のコピーを送付した」と報じました。この記事を普通に読めば「小野元庁長が横領を隠蔽しようとしたからやむを得ずN氏が通帳のコピーを送付した」と考えてしまいますが、裁判所は小野氏の隠蔽を明確に否定しています。

裁判所が認定した実際の経緯は以下の通りです。原告のN氏は令和4年12月16日にM氏の横領を小野元庁長と参事に報告しました。このときN氏は懲戒免職・刑事告訴が相当だと考えていました。ところが小野元庁長と参事との会話のなかで、早々にM元主事の親が全額を返済し謝罪していること、人手不足、過去の前例などを考慮して停職や減給という意見も出されました。この意見を聞いたN氏は知人に対し「LINEのメッセージで、親が返済するからと、停職・減給1か月という処分で事実上不問に付し、隠蔽しようとするのは納得できない、早々に脱出したいなどと述べていた」(裁判所判断、判決書13p)。

ここで注意せねばならないのは、M氏の処分には役員会の承認が必要で、庁長と参事だけで決定することはできないということです。小野元庁長と参事は都神社庁の規則や過去の前例などから停職または減給という可能性を口にしただけで、役員会の承認を得ずに独断でM氏を軽い処分にしようとしていた訳でも、M氏を庇って甘い処分にしようと画策しようとしていた訳でもありません。このときの状況を裁判所は「都神社庁内部では厳正な処分がなされないとの懸念が客観的にみて高まっていたとは認め難く」(判決書16p)と評価しています。つまり客観的に証拠を見て、小野氏は厳正な処分をしようとしていたように見えると裁判官は判断しているのです。

つまり「隠蔽」とはN氏の主観的な感想に過ぎません。そもそも原告のN氏はLINEのメッセージで友人に対し「隠蔽」という表現を用いましたが、裁判所へは軽い処分がなされるおそれと主張しています。このように裁判所が明確に否定し、ましてや原告も主張していない「隠蔽」という表現を東京新聞が判決後の記事で使用することは、報道機関として公平性、正確性、新聞記事が社会に与える影響への配慮を著しく欠いています。なぜならば上述の通り記事だけを読んだ人は小野氏が横領を隠蔽しようとしていたと誤解するからです。文法的に考えても軽い処分を検討していたことを「隠蔽」とは言いません。不適切な表現を指摘された時によく「文字数が足りなかったので〇〇と約した」という言い訳が用いられますが、今回のケースでは「処分方針に不満を抱き」など隠蔽に代わる表現はいくらでもあります。東京新聞には判決から逸脱し、かつ被告の名誉を毀損する「隠蔽」という表現を用いた理由について、報道機関として説明責任があると私は考えています。

小野氏が叱責したのは横領を隠蔽するためではありません。叱責したのは通帳のコピーを外部に流出させたことに対してです。

通帳開示は公益通報にあたるか

N氏は国会議員の秘書2名、元秘書1名に対して横領の証拠となる通帳のコピー(PDFファイル)をマスキング(黒塗り)せずにLINEで添付して送付しました。そうすると受け取った3名はM氏の横領の証拠(個人口座への振込の事実)だけではなく、他の出入金記録も見ることができます。しかもPDFにしてデータを渡してしまったので、3名から更に他へと流出するリスクもあります。常識的に考えて組織の通帳のコピーが部外者の手に渡ったら、組織の長として事実を確認し、それを行った職員を指導するのは当然のことです。

これに対し原告のN氏は「公益的な動機に基づくものであった」また「事務的な入出金の履歴があるだけで氏子などの個人情報が記載されているものではなく、内部情報ではあるものの、その情報の要保護性は高くない」と公益通報であり、違法性は阻却されると主張しました。平たく言えば、公益通報だから叱責される筋合いがないと主張したのです。

これに対し裁判所は「原告と秘書らは友人関係と呼べる関係にあると認められ、原告が本件通帳のコピーをLINEで添付してメッセージを送信した意図は、国会議員への通報を期待していたというよりは、友人に対して、被告が口にした処分が軽すぎることへの不満や都神社庁を辞めることを考えていることなどを吐露することが主眼であったと推認されるところである」(裁判所判断、判決書15p)と原告の主張を完全に斥けています。小野氏が横領を隠蔽しようとしたからではなく、不満を吐露するためにコピーを渡したのだと裁判所は明確に指摘している訳です。「隠蔽を懸念して」という東京新聞の表現が判決に即していないことは明らかです。

通帳のコピーを送付するという「原告の行為は公益通報者保護法に定める公益通報に準ずるものと評価すべきものとは認め難い」のであり、「原告の行為は、都神社庁の就業規則に定める服務規律に違反する行為(業務上知り得た秘密を、他に漏らすこと)に当たるというべきである」(判決書16p)ということから小野元庁長には指導の必要性があったと裁判所は判断しました。

パワハラはあったか?

指導の必要性があったことが確認できたら、次はその指導内容が許容される範囲内だったかを確認せねばなりません。指導の必要があっても、そのやり方が業務上必要な範囲を逸脱したらパワハラになってしまいます。小野氏がN氏にとった指導方法は叱責と始末書でした。

小野氏の叱責について、裁判所は「感情的でやや行き過ぎた指導であったことは否定できない」としつつも、参事も臨席させて単発的な事象であり、「客観的にみて相当な範囲を超えるとまでは認めがたい」と判断しました。始末書も「懲罰的、制裁的な目的で作成させたものとまでは認められず」とし、強要されたとする原告の主張に対しても「採用できない」と斥けています。「本件始末書の作成、提出についても、業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な指導の範疇と評価すべきである」(判決書18p)というのが裁判所の見解です。

以上を踏まえた上で、パワハラについて「原告の主張はいずれも採用できず、被告に不法行為(パワーハラスメント)が成立するとは認められない」と裁判所は小野氏のパワハラを完全に否定しています。

名誉棄損は成立するか

都神社庁の協議員会において小野元庁長が「元主事補であった原告が内部情報を漏洩したため、都神社庁の庁長であった被告において、叱責し、反省してもらうために始末書を書いてもらった」(判決書19p)という趣旨の発言をしたことについて、N氏は名誉棄損による損害賠償請求をしていました。これに対し裁判所は「当該行為が公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出た場合には、適示された事実が真実であることが証明されたときは、同行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当」という法理を述べた上で、

  • 当該発言は協議員会で原告の行為とそれに対する庁長の対応を説明するなかでなされた発言であり、公共の利害に関するものと認められる。
  • 被告において不当な目的があったとは認められない
  • 「原告が内部情報を漏洩した」とする点は真実である
  • 「飛行が原告を叱責し、反省してもらうために始末書を書いてもらった」とする点も真実である。

として違法性阻却事由が認められるとして、「本件発言にかかる不法行為は成立しない」とN氏の請求を斥けました。

東京都神社庁の和解

このように裁判所は原告の請求を棄却し、小野貴嗣氏のパワハラと名誉棄損を否定しました。この間、特に東京都神社庁の役員改選に際し、小野氏がパワハラをした、あるいは横領を隠蔽しようとしたとして「口撃」した人は事実に基づかない誹謗中傷をしたのであり、大いに反省すべきでしょう。

さて小野氏が退任し、松山文彦氏が新たに庁長に就任しました。都神社庁の新執行部は早々にN氏に対し金80万円を支払って和解しています。しかし、小野氏が裁判に勝訴したのですから、都神社庁も裁判していれば勝訴した可能性は高いです。そうすると80万円も支払って和解するという判断は妥当だったのでしょうか?

和解金80万円は言うまでもなく神社庁の資金であり、神社庁の資金は都内の神社が拠出したものです。松山庁長には和解の妥当性について都神社庁関係者に説明する責任があります。特に松山氏は神社本庁の百合丘職舎売却について責任追及しておきながら、自らの判断について説明責任を果たさないのはダブルスタンダードになってしまいます。

正義マン

小野氏はパワハラも横領の隠蔽もしなかった。これが裁判所が認定した事実です。神社関係者のなかで、小野氏がパワハラをした、あるいは横領を隠蔽しようとしたと思い込んでSNSや都神社庁の会議において誹謗中傷をした過去がある人は、早々に謝罪すべきでしょう。少なくとも神職としての矜持があるなら謝るべきです。自らの過ちを認めて謝罪できない者に他者を善導するなど不可能だからです。

人間の脳みそは「正義を執行し悪を制裁している」と認識すると快楽物質を分泌します。近世までの村八分とか、犯罪者に村中で暴力を振るって私的制裁を加えるなどといった野蛮な習俗は、そうした脳みその構造による現象です。しかし、文明が発達するにつれて本能ではなく法と理性によって人を裁くべきだと人類は考えるようになりました。そうして成立したのが近代法治国家です。法治国家では村八分などの野蛮な習俗は否定され、罪の有無と制裁は司法機関に委ねられます。ただ近代法治国家を樹立するまでの道のりは簡単ではありませんでした。政府が法治主義を唱えても、人々が国家の法律よりも自身の感情を優先していたら法治国家は成り立ちません。人々の意識を変革せねばならなかったのです。実は、日本においてその大事業の一翼を担ったのが神職や僧侶といった教導職でした。教導職の三条教則には「朝旨遵守」が明記されています。日本が近代的な法治国家になれたのは、国民が法律を遵守し理性的な対応ができるようになったからであり、国民の遵法意識を高めたのは神職をはじめとする教導職の功績が大きいのです。

それから100年以上が経過し、残念なことにSNSが普及したことによって過剰な正義を振りかざし、他者を攻撃することを楽しむ人が増えてしまいました。そうした人々をネットスラングでは、「正義中毒」とか「正義マン」と呼びます。歴史的に考えて、正義マンに対し冷静な対応を求めるのが社会の師表たる神職や僧侶の社会的な役割なのですが、その方面で活躍できていないのが実状ですし、むしろ一部の宗教者が正義マンになってキャンセル・カルチャーを引き起こすという事例が散見されます。非常に残念なことです。

判決が下る前、小野氏のご家族に匿名の書状を送った人がいるという風聞を耳にしました。聞くところによると内容は勇気ある告発をした原告を小野氏がパワハラで適応障害に追いやったとご家族を責めるものだそうです。なぜ本人ではなく、ご家族に送るのか?ご家族宛に送付する合理的理由および大義は一切ありません。実際に小野氏のご家族にそうした書状が本当に送付されたのかは確認のしようがありませんが、事実ならば許しがたい卑劣な行為です。

神社で半旗はありえないという話

参政党の白ネクタイ

参政党の神谷宗幣氏が靖國神社に参拝する際に白ネクタイを着用して批判している人がいますが、靖國神社に参拝するのに白ネクタイはマナー違反ではありません。むしろ黒ネクタイがマナー違反です。

葬式のときに喪主が黒のリボンまたは腕章をつけることがあります。これを喪章といいます。明治天皇崩御されたときに、政府は「国民は喪章をつけましょう」と勧奨しました。これは強制ではありませんが、半数近い国民が付けていたという当時の証言もあります。

このときに神職から「装束の上に黒い布をつければよいのか?」という質問が全国神職会を通じ内務省神社局に寄せられました。このときに神社局は喪を服したまま神事奉仕はできないから奉仕中は喪を服さずと訓示しました。神明奉仕という使命を果たすのが陛下への忠義であり、喪を服した状態で神明奉仕はできないから奉仕中は喪章をつけるべきではないという理屈です。

靖國神社は招魂社であって普通の神社ではないから他の神社の理屈は通用しない(だから黒ネクタイで参拝するのが正しい)という珍説を唱える人もいますが、別格官幣社です。そのため服喪に関しては別格官幣社のルールが適用されます。

別格官幣社を含む官国幣社以下神社の神明奉仕に際し、喪章あるいは喪を服していることを表す服装(黒ネクタイ)を着用すべきではないのですから、靖國神社へ参拝する時に黒ネクタイがよろしくないのは明らかです。

ただ神道の服喪や内務省の通達を知らない一般の遺族のなかには「戦没者の追悼だから黒ネクタイだろう」と思い込んで靖國神社に黒ネクタイで参拝する人も大勢いました。これは本当はよろしくないのですが、遺族の心情を思うと「あんたら間違っとるで」と注意することもためらわれます。放置していたため黒ネクタイで参拝する人が増え、「靖國神社に追悼で参拝するときは黒ネクタイ」という勘違いが国民に定着してしましました。

戦後80年も経ち遺族会も減っていますので、このあたりで是正した方がよいでしょう。

半旗弔旗

神社は喪を服さないというルールは大正天皇の大喪のときも確認されています。こうした歴史がありますので、神社で半旗や弔旗はありえません。もし半旗や弔旗を掲げている神社があったとしたら、勉強不足だと言わざるを得ません。

そもそも喪に服していたら御祈祷も日々の日供もできません。弔旗を掲揚しながら初宮詣を受け入れるのは矛盾です。ところが「忠良な臣民として率先して喪に服すべし」という感情が暴走して「喪を服したまま神明奉仕はできない」という神道の禁忌に違反してしまう神職が大正時代から一定数います。大正元年に全国神職会から通達を受けてもこれに従わず、全国神職会の役員が独断で通知を出したと陰謀論を唱える者もいました。彼らに悪意はありません。むしろ正義感の強い人々です。ただ知識と冷静な判断力が足らないから暴走し、混乱を巻き起こしてしまう。歴史を学んでいると、いつの時代、どのような職業にも一定数そういう人がいることを痛感します。

喪は重い

神道において喪を服したまま神様に関わることに触れるのは強いタブーです。喪を服したまま神事を奉仕すれば天神地祇の怒りを買う。その報いは神職だけではなく、氏子に及ぶ。世のため人のためにならないことなのです。タブーが緩くなった現代の一般人ですら身内の葬式から神社に参拝するまで一定期間を設けています。今より禁忌に厳しい江戸時代の神職は通夜を弔問したあと自宅に帰らずに外泊した人もいたくらいです。それくらい徹底していました。

ところが今や午前中に葬式を奉仕したあと、午後から平気な顔して社頭で祈祷する神職もいます。境内の一角で葬祭をしているケースもあると聞きます。江戸時代の神職が見たら「この罰当たりが」と卒倒するでしょう。彼らに喪について尋ねるとたいてい「田舎の小さな神社の神職は葬式のあとに祈祷しないとやってられない」とか「神社を維持するためにしかたない」と必死に反論してきます。彼らにとっては大義名分なのかもしれませんが、飲食店の店主が「うちの店にはオレしかいない」と言って釣り銭を握った手を洗わずに生肉や生魚を直に触り、経費削減とか食品ロス解消を口実に前の客の食べ残しをあとの客に提供するのと同レベルの自分勝手な屁理屈でしかありません。神職の都合だけで、神様に対する畏敬の念がカケラもない。

葬儀を奉仕したら当日は通常の神明奉仕はできぬ。これは神道の数少ない禁忌の一つです。その少ない禁忌ですらまともに守れなくなっているから、社頭が衰退していくのです。

週刊新潮の記事について

週刊新潮』(6月12日号)に田中派の多数派工作が功を奏し再任されたという記事が掲載されました。この記事に関連し「週刊誌に多数派工作と書いてあるじゃないか」とか「毒饅頭を食べた神職が多いということだ」というコメントをいただきました。

まず多数工作うんぬんはインタビューを受けた神社本庁関係者の発言部分(「」で囲んだ部分)ですので、週刊誌が多数工派作があったと述べているのではなく、そういう声があると紹介してあるだけです。もしコメントを下さった方が週刊誌が言っているという認識であるならば完全な誤読です。

つぎに当初より私は総長選任は選挙と述べています。選挙なんだから多数派工作は当たり前です。こんなの落選した政治家が当選した議員を「あっちは選挙運動した」と批判するのと同じで、最初に読んだとき「本気で言うてんか?冗談やろ」と思ってしまいました。

多数派工作という表現はマイナスのイメージがありますが、「立候補するんでよろしく」とか頭を下げて回ることはやましいことではありません。どんな団体でもやることです。それを「多数派工作」と言ってしまうところに今回のトラブルの要因の一つがあると思います。

また田中恆清氏を支持した人々に対して、毒饅頭つまり利益供与を受けているんじゃないかというコメントを多く見かけますが、一言言いたい、証拠あんの?証拠もなしに言っているのであれば、それは道徳的にどうなの?

最後に、この記事をネット上に転載引用している神道人もいるようです。この記事が神社のイメージアップになることはありません。それなのにわざわざ引用して拡散するということは「神社本庁を攻撃したい>神社神道のイメージダウンを防ぎたい」という判断をしたということです。私はそれが神社界の自浄の適切な手段だとは思えません。