神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

週刊現代(2024年4月13日号)所感

はじめに

週刊現代』(2024年4月13号)に「「日本の神社」が揺れているーこれじゃ、心安らかに参拝できないよ」という記事が掲載されました。なかなかにショッキングな見出しですが、事実誤認も数多くみられます。そこで今回は事実確認をしつつ所感を述べていきます。

三大八幡宮

まず鶴岡八幡宮を三大八幡宮の一つと紹介していますが、三大八幡宮のうち八幡信仰の発祥である宇佐神宮、京都の守護として崇敬された石清水八幡宮は固定メンバーですが、残り一社を鶴岡八幡宮とする説もあれば、福岡県の筥崎宮とする説もあります。そもそも「三大八幡宮」というのは朝廷などによって正式に認められているものではありません。自然に醸成される社会通念もあれば、「日本三大〇〇はこれだ」とテレビ局などの情報発信者がつくるものもあります。

鶴岡八幡宮神社本庁を離脱することの重みを示す表現としては「旧国幣中社が離脱」が最も適切でしょう。しかし、この表現の意味するところは一般になじみのない社格制度を理解していないとわからないので、記者は一般人向けに「三大八幡宮」という表現を用いたのでしょう。

誤読を招く文章

記事は鶴岡八幡宮の離脱の大きな原因として百合丘職舎売却問題を挙げ、以下のように述べます。

神社本庁トップによる背任行為が疑われた以上、本来であれば調査のうえで、辞任や降格などの措置が取られるべきだ。

この文章において「背任行為が疑われた」と書いています。なぜ「背任行為が行われた」と書かないのでしょうか?

その理由は簡単で、本ブログでも再三解説してきたように田中恆清氏による背任行為を裁判所は認めなかったからです。

記事の中の「売却価格は相当低かった。田中氏や打田氏が背任を行ったと信じる相当の理由があった」という文章は、田中氏や打田氏が背任をしたことを意味しません。

この裁判を理解する上で必須となるフレーズが「信じる相当の理由があった」あるいは真実相当性です。真実相当性とは何かというと、例えば社長室から貴重品が盗まれる事件が発生した。犯人探しが行われるなかで社員Aが「その日に社長室に入ったのはBしかいなかったからBが盗んだに違いない」と発言した。しかし、調査したところ真犯人はCで、Bは無実だった。真犯人が見つかるまでの間、Bは同僚から犯人扱いされ、子どもも学校で「泥棒の子」といじめられた。そこでBはAを名誉毀損で訴えた。しかし裁判所は「AがBが盗んだと信じるに相当する理由があった」とAを勝訴とした。このケースにおいて「信じるに相当する理由がある」とは「AがBが犯人だと勘違いしてもしかたのない状況だった」という意味です。誰にでも勘違いはあります。その勘違いによる告発・通報が有責となってしまうと、勇気を出して通報や告発をする人が減ってしまいます。そのため相手を陥れるつもりで犯人だと言ったのではなく、勘違いから通報・告発した人は許してあげましょうというのが日本の法律です(「公益通報者保護法」など)。

しかし、上記の例え話だとBは犯人扱いされて不利益を被ったのに救済されません。ひょっとしたら真犯人がCだという情報を知らずに、Bが犯人だと誤解し続ける人もいるかもしれません。このように誤って犯人扱いされた人の人権保護に関して日本の法律は遅れています。

真実相当性の意味を踏まえて『週刊現代』の「背任行為が疑われた以上~(中略)辞任や降格などの措置が取られるべきだ」という文章を改めて読むと、当事者や法理用語に詳しくない人への配慮に欠けています。「背任したと信じるに相当する理由があった」なんて書かれていたら、法律に詳しくない人は「背任した」と誤解してしまいます。そうしたことがないように「背任はなかった」と補足するのが読者に読みやすい文章を提供することであり、当事者(田中氏と打田氏)の人権や名誉に対する配慮です。

また改めて申すまでもないですが、冤罪人道的に許されるものではなく、疑惑で人を裁くべきでもありません。人を裁くときは疑惑が事実であることを確認し、相手にも抗弁の機会を与え、法律に基づいて裁かねばなりません。田中氏や打田氏については背任の疑惑をかけられましたが、裁判所は両者が背任を行ったという認定はしませんでしたし、警察に逮捕されることもありませんでした。神社本庁が敗訴したのは田中氏と打田氏が背任行為をしたからではなく、公益通報者保護によるものです。2人に対する背任は疑惑に過ぎなかったのであり、疑惑で辞任や降格を求めるのは道理に反します。

神宮大麻

神社神道の立場から見た場合に、この記事で最も問題なのが神宮大麻に対する記述です。

神祇院の頃は、税金で組織を維持していたが、神社本庁となってからは国からの支援は受けられない。そのため、神社本庁は、組織維持のために収入を得る必要に迫られた。そこでつくられたのが、伊勢神宮のお札「神宮大麻」だ

ここの記述は史実に反しています。伊勢の御師が配っていた「御祓大麻」が明治天皇の思し召しにより「神宮大麻」として頒布されるようになったのは1872年(明治5年)です。神社本庁ができる前から「神宮大麻」は存在していた訳です。

何より全国の神職明治天皇の思し召しだからこそ神宮大麻頒布に従事しているのであって、神社本庁の資金源のために頒布している訳ではありません。もし『週刊現代』の記事が田中恆清氏を叩いているからと喝采している神道人がいたならば、その人は神宮大麻の尊厳よりも田中恆清氏に対する攻撃を優先していることになります。神社神道において田中恆清氏をキャンセルすることが神宮大麻の尊厳より重要事項だとは思えません。

また宗教学者島田裕巳氏の解説として「宮司などの神職は公務員として扱われ、国が給料を出していたのです」という記述もありますが、厳密にいえば、神職の給料が税金から支払われていた時期は官国幣社明治20年まで、府県社以下では明治7年までです。

ほかにも

この他にも憶測や事実誤認、不自然な論理展開が散見されます。いくつか指摘しますと、まず田中氏は報酬のために総長の座に執着しているのではないかという神社本庁関係者の推測が記されていますが、この推論はよその神社も経済状況が苦しいから石清水八幡宮も経済状況は苦しいだろう、神社の経済状況が苦しいから田中氏は総長として神社本庁から支払われる報酬を欲しているのだろう、という推測に推測を重ねたものであり、憶測の域を脱しません。

次に神社本庁関係者の証言として、神社本庁の役員は本庁組織内部のことは素人であり、本庁OBである打田氏が役員と職員の仲介役として「本庁全体の運営をさばいていた」と述べられていますが、これは不自然な話です。内部事情に精通した人間を助言者にしないと本庁を運営できないのであれば、田中氏以前の総長にも打田氏と同様の役割を担った人物がいたことになります。しかしながらそういった人物について過去に問題視された記録はありません。

他にも平安神宮権禰宜を「宮司の補佐役」と記していますが、平安神宮などの別表神社宮司権宮司禰宜(数人)、権禰宜(多数)です。権禰宜は企業でいうなら平社員であって、社長(宮司)の補佐役ではありません。

総長の氏名をめぐる裁判で田中氏側が勝訴したにもかかわらず、「田中氏は総長の椅子に座り続けている」とか「神社本庁田中派支配」と不当に総長として在任し続けているかのような印象を与えかねない表現を用いるのは適切ではないと思います。

全国神社スカウト協議会をめぐる風説について

諸々の問題と疑問

今回は「自浄.jp」の全国神社スカウト協議会をめぐる記事について検討したいと思います。

まず「自浄.jp」の記事は月刊総合情報誌『選択』HPの転載です。しかしながら「選択」HPの記事は会員のみが閲覧できるようになっていますので、「自浄.jp」が転載(画像をスクショして貼り付け、かつ文章の全文を転載していること)について、選択出版株式会社の許可を得ていないのであれば法的に問題があります。

仮に許可されたのであれば、どのような経緯で許可されたのかについて興味が湧きます。有料記事の「全文」転載許可が相次げば、有料にしている意味がなくなりますから、簡単に許可される話ではないでしょう。

レセプション経費

本題に入りますと、全国神社スカウト協議会の「レセプション」で150万円以上の経費がかかったことが批判されているのですが、皇族ご臨席のレセプションパーティなら150万円くらいはかかるのは当たり前じゃないですかね?

そもそも「レセプション」とはゲストを招待するオフィシャルなパーティです。ましてや皇族がご臨席されるとなれば、粗相がないように、その地域で最も格式の高い会場を確保し、最高級のフルコースの料理をお出しすると考えるのが当然です。

今回は伊勢ですから、候補地としてまず考えられるのはサミット会場にもなった志摩観光ホテルです。HPで志摩観光ホテルのディナーコースの金額を調べると、一番グレードが高いもので1人前41,000円です。19,800円のコースもありますが、皇族のご臨席を仰ぐ以上、最高ランクのものをご用意したいと思うのが日本人として普通の感覚ではないでしょうか。そうすると食事代は20人で82万円、30人で123万円です。これに会場費やドリンク代、給仕スタッフの費用が加算されれば150万円くらいにはなるでしょう。

仮に志摩観光ホテルで試算してみましたが、他のホテルであっても最高級のコース料理を注文すれば同等の費用はかかります。費用としてはほかに控室、運転手や随員の方への食事などもあります。

このように皇族をお招きしてのパーティであれば費用が150万円以上かかるのは決して不当な金額ではありません。少なくとも150万円が不当な金額か妥当な金額かは、会場、人数、料理のグレードなどの詳細情報がないと判断できません。

不確定情報が多過ぎる

会場も人数もわからないまま、150万円という金額だけが独り歩きしていますが、それだけでは不当に高い経費であったのかは判断できません。また神社スカウトの大会そのものは神社本庁主催ですが、レセプションの主催が神社本庁であったのか、全国神社スカウト協議会であったのかについても不明です。また役員の辞任について体調不良や引責辞任などの風聞が記されていますが、こちらも不確定情報です。このように総じて風説の域を脱していません。

仮に内部で紛糾したのであれば、それは事前に見積もりをとって、関係者で情報共有し、予算組みができていなかったということでしょう。予算オーバーの不始末をどうするかは役員会で議論し、総会の審判を仰ぐことであって、社会的に制裁を下すような問題でもありません。

柳田国男を利用した大嘗祭批判

東京新聞社

平成の御代替のときは大規模な反対運動や放火事件などもあり、大きなニュースになりました。これに対し、令和の御代替のときはマスコミもおおむね好意的に報じ、何の問題もなかったように思っている国民も多いことだと思います。

しかし、報道されないだけで大嘗祭憲法違反だという裁判や反対運動は発生していました。令和と改元されて6年目になる2024年1月31日に、東京地裁大嘗祭などに公費を支出したことが政教分離違反や信教の自由の侵害にあたると主張した市民の訴えを退ける判決を下しました。即位礼や大嘗祭は国事行為や皇室の行事として行われ、特定の信仰を禁止したり、強制していないというのが棄却の理由です。

この判決に対し東京新聞は2024年2月6日<社説>大嘗祭判決 憲法との調和考えねば:東京新聞 TOKYO Webで「宗教色が濃い皇室行事であり、巨額の公費支出には慎重な配慮が必要だ。憲法との調和が何より求められる」と批判しました。その際に、柳田国男も莫大な経費をかけることに反対であったと以下の通り主張します。

民俗学者柳田国男大嘗祭を批判した一文がある。貴族院書記官長として、大正天皇の代に京都で行われた大嘗祭を見聞した。「今回ノ大嘗祭ノ如(ごと)ク莫大(ばくだい)ノ経費ト労力ヲ給与セラレシコトハ全ク前代未聞」とし、心ある者は眉をひそめたとも記した。莫大な経費だけでなく、徹底的に古式を保存し、一切の装飾を除去すべきだとも苦言を呈した。

この文章を柳田国男が読んだら激怒するでしょう。柳田の意図とは全く違う形で引用されているからです。そこで今回はこの一文について検討したいと思います。

出典は?

この一文の出典は「大嘗祭ニ関スル所感」です。ちなみに東京新聞は出典元を明記していませんが、論拠として引用するのであれば出典を明記するのが作法でしょう。

この文章は筑摩書房の『定本 柳田国男集』ですと第31巻に所収されています。わずか6ページほどの短い文章です。

この文章を読むと、まるで役人が政治家に意見具申するために記した印象を受ける文体ですが、生前に公開されたものではありません。この点は取り扱い上、非常に重要です。発表した作品であれば、それは柳田国男本人が納得して世に出した訳ですから、それを引用して「柳田国男は〇〇と言っている」と書いても問題ありません。しかしながら、発表しなかった作品の場合は、柳田国男が文章の出来栄えに満足できなくてボツにした可能性もあります。そういう可能性のある文章を引用する際は、なぜ発表しなかったのか、発表しなかったけど他の論文との一貫性があるかなどを確認して慎重に引用しないといけません。

柳田の主張は何か

大嘗祭ニ関スル所感」を要約すると「即位礼は国際的に国威を宣揚する儀式であるから盛大にやるべきだ。大嘗祭は即位礼よりも重要な祭典だが、性質が異なるので予算と人員を増やして派手にやることを目指すのではなく、稲作農耕儀礼としての古式を守り、厳重な物忌みをして神聖さや幽玄さを追求すべきだ」となります。

柳田国男が「大嘗祭ニ関スル所感」で批判しているのは、①旧暦11月の大嘗祭新暦11月に行おうとすると稲作との関係で季節的な無理が生じること、②即位礼と大嘗祭が連続して執り行われたことにより充分な物忌みが出来なかったこと、③これらは担当者が大嘗祭の精神について不勉強だったことが原因だから反省してほしい、以上の3つが要点であって、大嘗祭の費用について批判することが所感の本旨ではありません。

物忌み

柳田が大嘗祭で重要視したのは「物忌み」、つまり精進潔斎です。そして物忌みをするのは役人だけではなく、市民も対象に含んでいることは「大嘗祭ノ前一夜京都ノ市民ハ電灯昼ノ如ク種々ノ仮装ヲ為シテ市街ヲ練行ク者アリ処々ノ酒楼ハ絃歌ノ声ヲ絶タス(中略)果シテ大嘗祭ノ前夜ナルカヲ疑ハシムルモノアリタリ」という一文から明らかです。

柳田が最も言いたかったことを現代風に言うと「大嘗祭のときは国民全員が精進潔斎するのが当たり前だ。前夜から電気を消して真っ暗で静かな夜を過ごし、祭典が無事に終わるのを自宅で祈りながら待つのが国民の務めですよ。昔はそうだったはずだ」ということになります。

東京新聞と原文との乖離

東京新聞の引用の仕方だと莫大な費用に眉をひそめた人もいたと柳田が述べているように読み取れますが、きちんと全文を読めば「心アル者」が密かに眉をひそめた原因が、農耕儀礼としての季節の不一致、物忌みの不徹底などであったことは明らかです。

この社説の引用方法は柳田国男の「大嘗祭ニ関スル所感」を誤読しているか、あるいは自己の主張に都合の良い部分だけを切り取りしているのであって、どちらにせよ引用方法としては不適切です。

そもそも大嘗祭の宗教色を批判している社説で、さらに宗教色の強い(国民に物忌みを要請している)柳田の論文を引用するのは大いに矛盾しています。

加えて、「天皇即位では「即位灌頂(かんじょう)」という仏教色の儀式もあったが、これは明治になって廃された」と述べた後に「大嘗祭は伝統儀式ではあるが、神道式祭祀(さいし)の大規模化は明治以降で、天皇神格化にも深くかかわった」と主張しますが、即位灌頂の方が明治以降よりも宗教性や神聖化が強いので、この部分の記述も矛盾しています。

いずれにせよ、柳田国男大嘗祭を国家で最重要の式典であると考え、実際に「奉仕」した身として農耕儀礼の古式を守り、物忌みを徹底する必要性を感じたから「所感」をしたためたのであって、東京新聞の引用の仕方は柳田の本意に反するものであると言わざるを得ません。

外苑再開発に関する東京新聞の論調に対する論評

東京新聞亀井静香氏を取材

東京新聞明治神宮外苑再開発に関して元衆議院議員亀井静香氏に取材し、亀井静香氏「明治神宮を見下ろす」外苑再開発に反対 「国民が寄進してできた。神宮の一存では許されない」:東京新聞 TOKYO Webと報じました。

亀井静香氏は警察官僚として「あさま山荘事件」などの重大事件に関わり、政界に転じてからは衆議院議員13期、運輸大臣建設大臣内閣府特命担当大臣自民党政調会長国民新党代表などを歴任した保守の大物政治家です。

今回の取材で亀井氏は「神宮は明治大帝が祭られている。そこを見下ろすような開発を外苑の開発としてやるべきではない」と主張しています。明治神宮を見下ろしてはならないというのは尊皇家としては正論ですが、だったらマスコミが皇族・皇居・明治神宮をはじめとする皇族を祀る神社・御陵を空撮・高い位置から撮影することもダメだということになります。この点に関して東京新聞としてはどのように考えているのでしょうか?東京新聞は皇族・皇居・神社を高い位置から撮影し続けるけど、外苑再開発反対にとって有利な発言は掲載するというダブルスタンダードはいけません。

それは詭弁である

再開発反対論の中心となっている「国民が寄進してできた。神宮の一存で再開発することは許されない」という主張は一見すると正しい理屈のように思えてしまいますが、実は詭弁です。なぜならば「国民が寄進してできた」という前提が誤りだからです。たしかに外苑は明治天皇を慕う多くの国民が奉賛・奉仕してつくられました。しかし、外苑創建に協力しなかった国民もいたのも事実です。

したがって厳密にいうならば「明治神宮奉賛会が寄進してできた」であり、さらにその後の復興や護持のために明治神宮復興奉賛会や明治神宮崇敬会が設立されたことから考えるならば、外苑の在り方について意見を述べる権利があるのは明治神宮奉賛会・明治神宮復興奉賛会・明治神宮崇敬会です。

前2団体はすでに解散していますので、現時点で再開発に対して反対意見を述べることができるのは明治神宮崇敬会のみであり、これは信徒の総意によって法人運営されることを規定する宗教法人法の趣旨にも適っています。

言い替えれば、明治神宮を維持するための奉賛をしてこなかった人間に発言権はありません。奉賛をせずに発言権だけを要求するのはフリーライダーですし、奉賛した人々の善意を冒涜する行為です。

法的根拠はあるの?

また「お金が必要だから再開発するというなら、経理の状況を公開しなければおかしい」という主張については、経理の状況を公開する法的・制度的根拠の記述がありません。

明治神宮経理状況の公開を迫る権利があるのであれば、それは誰が有する権利なのか、どういう法的な根拠があるのか、などの解説を付して報じるのが社会の公器としての務めです。この記事の中核になる点なのですから、取材した記者はその点をより深掘りすべきでしょう。対象の発言の裏付けを取って記事にするのも、読者にわかりやすく解説を付すのも新聞報道の基本のはずです

伊達巽宮司

記事で「伊達巽・元宮司」の名前が挙がっていますが、この伊達巽宮司こそ外苑の収益事業を進めた人物であり、伊達巽宮司が今回の再開発を反対するはずがありません。

一般の人は「明治神宮は参拝者も多く、賽銭も多いだろうから経済状況は良いはずだ」と思うでしょうが、明治神宮は収入も多いけど支出も多い神社です。あれほど立派な社殿を維持し、境内林を整備し続けるためには莫大な維持費がかかります。つまり明治神宮は「社殿・境内の維持管理費>社頭収入」という経営課題を抱える神社なのです。

これは戦前からの課題であって、賽銭などの社頭収入では不足する維持費をカバーするために戦前は修理の際の国庫補助や「国庫供進金」という公的補助が手厚くなされていました。しかも「国庫供進金」は官国幣社に対して神社維持費の不足状況に応じて支給されていましたが、明治神宮の受給額は上位でした。それだけ維持費が不足していたということです。しかし、維持費を支えていた公費補助も敗戦時の神道指令で廃止されました。

企業などであれば収入が減ったならコストを削減すればいいじゃないかという経営判断を下すこともできますが、明治天皇をお祀りする明治神宮の祭祀・社殿・境内を縮小させることはできないというのが当時の明治神宮の崇敬者の総意でした。明治天皇をお祀りする以上、祭祀も社殿も境内も最高級のものでなくてはならないというのが、計画段階から一貫した理念です。そうすると内苑・外苑の維持のために公費補助に代わる収入を創出せねばなりません。その課題を解決するために権宮司として招聘された人材が伊達巽氏です。

伊達権宮司神宮球場プロ野球の誘致、明治記念館の直営化など収益事業を推進しました。現在に続く、外苑の収益で内苑を維持するという仕組みを本格化させたのは伊達巽氏なのです。収益事業を推進したと聞くと商業主義的な俗人という印象を持たれるかもしれませんが、伊達巽氏は官国幣社宮司を歴任した神職であり、明治神宮では御祭神の神徳を宣揚する出版物の刊行にも力を注ぎ、復興奉賛会においても募金をお願いしに自ら全国を行脚しました。むしろ記録や事績からは地道な教化活動を重んじる硬骨な神主が想像されますし、実際に多くの崇敬者から信頼されて宮司に昇進しています。伊達宮司が外苑守成の功労者の一人であることは間違いありません。

世代的に伊達巽宮司と親交のあった人は少なくなってきています。私が取材するなら亀井氏から伊達巽氏の名前が出た時点でその人柄、収益事業に関する考え方などを詳しく聞いて記事にします。現在の外苑の仕組みをつくった人物に関する情報は再開発問題を考える上で有益な判断材料となりますから、記事で伊達巽宮司に関して深掘りされていないのは残念でなりません。

賛成派・反対派両方に取材し、法制度や歴史的経緯をリサーチして、国民の判断材料としての情報を提供するのが社会の公器としてあるべき姿勢であると私は考えます。東京新聞のこれまでの再開発に関する記事はどちらかといえば反対派に重点を置いた感があり、法制度や歴史的経緯の解説も充分とは言えません。

外苑における収益事業

明治神宮の歴史をひもとけば、外苑における収益事業は金儲けのためにやっているのではなく、内苑・外苑を維持していくために必要不可欠だからやっていることは明らかです。賽銭などの社頭収入だけで内苑・外苑を維持できれば理想であるが、社頭収入だけでは維持管理費を賄うことはできない。再び明治神宮を公法人に復帰させて公費補助を受けることは戦後の政教関係では難しい。だからといって、明治天皇を奉斎する社殿を縮小させ、祭祀を簡略化し、維持できない境内を売却することは敬神尊皇の精神からできるはずもない。ならば収益事業をはじめて維持費を捻出するしかない。こういう事情を無視して外苑の在り方を論じるのは、伊達巽宮司をはじめとする先人の内苑・外苑を維持するための苦労や苦悩を軽んじる行為です。そのため今回の再開発問題を含め内苑・外苑の将来の在り方については、創建・守成の理念を継承し、明治神宮を崇敬し維持するための奉賛をしている明治神宮崇敬会の意向を最大限に尊重すべきであることは言うまでもないはずなのですが、なぜか東京新聞に限らずマスコミは崇敬会の意向を重く扱ってはいません。

外苑の収益事業が止まれば、内苑・外苑の維持が難しくなります。反対するなら維持費の負担について考えてほしいですし、政治家なら公費補助の方途を考えてほしいものです。宗教法人だからできないというのは思考停止です。宗教法人の所有する重要文化財の修理保全には公費補助がなされます。宗教法人の布教に対する支援ではなく、公的に支援してでも保全すべき文化財の所有者がたまたま宗教法人だったからなので、こうした補助は政教分離に抵触するものではありません。イコモスを含め再開発反対派の人々は外苑に保護すべき価値があると主張しています。コモンだと主張する人もいます。外苑が公共財ならば重要文化財に準じて公費補助を支出することは問題ないはずです。その実現方法を考えるのが政治家の仕事ではないでしょうか。

今の外苑は最高級でしょうか?現代社会に明治天皇の偉大さ伝えるための空間として最適化されているでしょうか?失礼ながら私は昭和の時代(明治でも大正でもない)で時が止まっていて素人目にも老朽化して耐震性が気になる箇所もあります。このような感想を抱かせることは創建に携わった人々の本意ではなく、角南隆が存命であれば「ああ、いつ来ても清浄で快適で無比の神苑であるな、と万人が感動するような空間であらねばならない。さっさと修理しなさい。」と叱咤激励するでしょう。

収益事業として考えても老朽化した設備では集客は低下し、スポーツには流行りすたりがあります。伊達巽宮司なら「収益を上げ続けるために不採算施設を閉鎖し、収益のあがる新施設に切り替えろ」と経営判断を下すでしょう。

外苑が最高級の神苑であり続けるためには放置ではなく、絶えざるメンテと定期的なアップデートが必要です。そのために創建時から長期的な施業計画をつくり、優れた技術者を育成してきたのです。今がアップデートの時期だと崇敬者が賛同している計画を止める権利が誰にあるというのでしょうか?

秀頼の後ろの祭壇は豊国大明神か?

祭壇に祀られるのは

NHK大河ドラマ「どうする家康」第44回「徳川幕府誕生」で徳川家康関ケ原の戦勝報告を豊臣秀頼にしたシーンで、淀殿と秀頼の後ろに祭壇が組まれています。この祭壇が何なのかという質問のコメントをいただいたので、私見を述べさせていただきます。

豊国大明神を祀った祭壇

豊臣秀吉は本人の遺言により神道で神として祀られることになりました。それが豊国大明神です。そのため大河ドラマの祭壇を豊国大明神を祀ったものという推理がネット上で散見されますが、まずありえないことです。

時系列を整理すると、豊臣秀吉が亡くなったのが1598年(慶長3年)8月18日、1599年4月13日に京都の阿弥陀ヶ峰に祀られ、4月16日に朝廷から神階正一位と「豊国乃大明神」の神号を贈られます。大阪城の山里丸に豊国社が創建されるのは1613年(慶長18年)であり、大坂の陣の前年です。この山里丸は大阪城天守閣の横に隣接する場所であり、この豊国社の横にある倉で秀頼ら一行は自害しています。事前に準備していたそうなので、成り行きで山里丸で最後を迎えたのではなく、最後は豊臣秀吉の側で迎えたいという意志があったことがわかります。

大河ドラマの場面は関ケ原の戦いの戦勝報告(この時点で立場上は豊臣秀頼が主君で家康は家臣であり、関ケ原の戦いは徳川VS豊臣ではなく、豊臣家の家臣同士の戦いという扱い)ですから、1600年です。したがって大阪城内の豊国社が創建される13年も前のことであり、豊国社で秀頼と家康が会ったという設定はありえません。

徳川家康の場合、1616年に亡くなって、江戸城の紅葉山に東照宮が建立されたのは1618年です。2年間の空白期間があり、主君の霊廟を歿後すぐに城内に建立せねばならないという風習が当時なかったことは明らかです。

大阪城に正式な豊国社が創建されたのが1613年であって、その前から秀頼らが日常的に父親である豊臣秀吉を追悼する霊舎(一般家庭の仏壇のようなもの)があってもおかしくないではないか、その霊舎の前で政治を行うことで秀吉の家臣が離反するのを防止しようとしていたのではないか、という意見もあるかもしれませんが、その可能性も低いです。まず京都の豊国社、大阪城の豊国社などの豊国大明神の祭祀は吉田兼見神龍院梵舜の兄弟が担っていました。この二人は当時の一流の知識人であり、神道家であって詳細な日記を書き残しています。大阪城内に秀吉の霊舎があったとしたら、その創建および年祭の記録がどちらかの日記に残るはずです。実際に大阪城の豊国社が慶長18年2月27日に遷宮されたことは梵舜の日記である『舜旧記』に記録されています。

大阪在住の神職が担当したという可能性もゼロです。梵舜と吉田家から分家して京都豊国社の神主になった萩原家にとって豊国大明神の祭祀を他の神職に担当されることは一族の衰退、吉田神道のメンツにかかわる危機なので、淀殿が吉田家以外の神職豊臣秀吉を祀ることを命じたら、その神職を社会的につぶすくらいのことはします。吉田家はたんなる吉田神社の神主ではなく、朝廷の公家でもあり、細川家の親戚でもあり、神祇管領長上という室町時代から明治維新まで圧倒的影響力をもった神道家なので、豊臣家も「京都は遠いから大阪の神職に頼みました」なんて言えるほど軽い相手ではありません。

仮に秀頼と淀殿が日常的に追悼するための祭壇を大阪城につくったとして、正式な社殿を建立するまで15年も要するのは不審です。秀吉のために立派な社殿を一日でも早く建立しようと考えるのが当然でしょう。また豊臣家の家臣の結束のために秀吉の霊舎が必要だったとするならば大坂の陣という豊臣家の命運をかけた決戦の前に天主閣の秀頼から秀吉の霊舎を分離させるのは悪手です。

次に大河ドラマの映像を見ますと、豊臣秀頼の座る位置には畳が一枚多くしかれており、祭壇(案)の脚よりも高い位置になっています。豊臣秀吉を祀る祭壇であれば秀頼の畳よりも上に設置すべきなので、祭壇の位置としておかしいことになります。そもそも映像の中の祭壇には神籬または霊代がありません。豊臣秀吉の霊璽、掛け軸、甲冑とか秀吉の魂が宿る依り代がなければ祭祀が成り立ちませんので、この祭壇は何かを祀っているものとは考えにくいセッティングをしています。金色の御幣がありますが、依り代とするならば中央にあるはずなので、御幣を依り代にしている可能性はゼロです。中央の三方に何か物体がありますが、あのように霊璽をあからさまに安置するとは考えにくいですね。

戦勝祝いの儀式のための祭壇

戦国武将が出陣や帰還に際して儀式や占いを行っていたことは戦国時代に関心のある方ならご承知と思います。問題のシーンは徳川家康が豊臣家の家臣として戦勝報告をする場面ですから、戦勝報告の儀式として祭壇を組んだという可能性もゼロではありません。御神酒を授受しているので、儀式用の祭壇だったと考える方が可能性があります。

しかし、このような儀式は複雑で、例えば敵と味方の被害状況によっても作法がかわります。そのため故実に詳しい家臣、あるいは修験者などに儀式のプロデュースと司会、執行を命じるのが一般的です。ちなみにこうした戦場での儀式や占いに詳しい人を軍配者といいます。よく武田信玄が持っている軍配を持つ人のことであって、というのは団扇ではなく、占いの道具です。

戦勝祝いの儀式だとしても、執行者が立って作法をすれば秀頼を見下ろすことになりますので、あの配置は不審です。しかも、祭壇が前に倒れてしまったら秀頼の頭に直撃してしまいます。ドラマの配置は不自然です。

そもそも畳の上で儀式をするのであれば、床の間を活用し、座礼用のしつらえをするはずであり、あのような立って行う儀式用の祭壇を組む必要性がありません。

ドラマなので

ドラマの演出であって目くじらを立てるほどのことでもないですが、ご質問をいただきましたし、秀頼が天主閣で豊臣秀吉を祀っていたという誤った情報が流布するといけませんので指摘しておきます。

大学受験用 神道の歴史

はじめに

大学受験(日本史)で必要となる神道の知識を要約してみました。覚えた方がいい専門用語・固有名詞は太字にしています。

神道の歴史

神道(しんとう)は日本独自の古い信仰である。あらゆるものに霊魂が宿ると考える信仰をアニミズムというが、神道アニミズムを特徴とする原始的な宗教である。教典はなく、教祖もいない。信仰のもとになっているのは各地の神話・伝承であり、奈良時代天皇太安万侶(おおのやすまろ)に伝承をまとめさせた古事記や歴史書である日本書紀に記載された神話をベースとして理論を構築している。

奈良時代に仏教が伝来すると神道習合した。習合とは重なるように合体することである。異なる二つの宗教が合体することができたのは「日本の神様は仏教を守護する存在だ」(護法善神)、「日本の神様も仏教により悟りを開きたいと願っている」(神身離脱説)、「日本の神様は仏教の仏や菩薩が民衆を助けるために仮の姿で出現したものだ」(本地垂迹説・ほんちすいじゃくせつ)といった仏教側の理論が基になっている。神社に付属する神宮寺(じんぐうじ)を建立するようになったのは神身離脱説による。3つの説のうち本地垂迹説が最終形態で、日本人の宗教観(神仏習合)に大きな影響を与えた。

これらの理屈は「神道より仏教の方が偉い」という発想でつくられているので、鎌倉時代伊勢神宮の外宮の神官であった渡会家行、渡会行忠らは「伊勢神宮は仏教の下ではない」と反論をした。渡会氏は理論派の神職でたくさんの本を書き残した。渡会氏が唱えた神道理論を伊勢神道といい、南北朝時代北畠親房などに影響を与えた。

室町時代になると、京都の吉田神社の神主だった吉田兼倶(よしだかねとも)が「樹木にたとえるなばら神道が根っこで、仏教や儒教は枝や花であって、根っこの神道の方が偉い」という反本地垂迹説を主張しはじめた。吉田兼倶とその子孫は足利将軍や徳川将軍らに気に入られて、江戸時代には神職の資格を発行する権限を与えられる。吉田家が唱えた神道理論を吉田神道または唯一神道と呼ぶ。

江戸時代になると幕府は「諸社禰宜神主法度」によって全国の神職を統制するようになった。そのときに家元みたいな地位を与えられたのが吉田家である。江戸時代の前半は吉田家が全国の神社に強い影響力を持っていたが、公家の白川家から免状をもらってもよいことになり、また吉田神道を否定する神道理論も生まれた。それが復古神道である。現代人が江戸時代の文書が読めないように、江戸時代の人も奈良時代の『古事記』を読めなくなっていた。これはまずいということで、『万葉集』や『古事記』を読めるようにしようと研究をはじめたのが、契沖(けいちゅう)、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)であり、真淵の弟子の本居宣長(もとおりのりなが)が注釈書の『古事記伝』を発表したことで『古事記』の意味がわかるようになった。奈良時代の古典を読んで吉田神道の理論を見るとおかしい点があることがわかったので、平田篤胤(ひらたあつたね)らによって「古代の神道に戻すべき」と復古神道(ふっこしんとう)が唱えられた。

復古神道以外にも江戸時代にはいろいろな神道理論の学派が生まれた。まず吉田神道からわかれた吉川惟足吉川神道朱子学神道を融合させた山崎闇斎(やまざきあんさい)の垂加神道(すいかしんとう)。ちなみに幕府が儒教の一派である朱子学を推奨したので、朱子学は武士の必修科目だった。白川家の伯家神道天台宗系の山王一実神道真言宗系の両部神道などである。

復古神道などにより「古代は天皇が統治していたのに、徳川将軍が政治の実権をにぎっているのはなぜ?」という疑問を抱くようになった国民と幕府に対する不満が合体して、幕府を倒して天皇が政治を行えば国がよくなるんじゃないかというムーブメントが幕末に起こり、明治維新へとつながる。明治維新のときに神社と寺院を区別する神仏分離を政府は命じた。このときに民衆の一部が暴走し、寺院を破壊する「廃仏毀釈」運動が起こった。また徳川幕府は特定の寺院で葬式をすることを原則(檀家制度)としていたが、これを廃止して、神道を優遇する政策をとった。そうして「天皇が統治する神国日本は優れた国だ」と考える「国家神道」が生まれて、国家神道が暴走した結果、太平洋戦争になって、日本は敗北した。

日本と戦争したアメリカをはじめとする連合国軍は「日本兵が死を恐れずに突撃してくるのは国家神道が原因だ」と考えて、日本が降伏したあとに神道指令を出して国家神道を解体した。戦後は国家から切り離された神社神道、もともと国家神道に組み込まれていなかった宗教としての教派神道、新しく生まれた神道新宗教がある。

おまけ

上で述べた神道の歴史は日本史の教科書を要約したものです。歴史学は常に進歩しており、昔の大先生の説が後輩に否定されることも珍しくありません。例えば、昔の日本史の教科書で足利尊氏だ教えられていた肖像画が、今では高師直ではないかと言われています。今の日本史の教科書の神道に関する記述は約50年前の学説をベースにしており、最新の研究にアップロードされていません。そのため大学の卒業論文神道について書く時に、このページでまとめた神道の歴史をベースに書くと「最新の研究が参考されていない」、「間違っている」と担当教授から指導されることになるでしょう。

しかしながら大学受験というのは高校で教える教科書の内容をきちんとインプット・アウトプットできるかを試すものです。最新の学説を回答する人間は不合格になり、50年前の古くて間違っている教科書通りの回答をした人間が合格するルールです。なので受験生は歴史学と受験勉強は別問題と割り切って、教科書をマスターして合格することに専念してください。これは神道に限らず、他の歴史分野についても同様のことが言えます。

教科書の内容を頭脳にインプットし、的確にアウトプットできるようにするのが高校生の勉強です。これに対して教科書に書かれた内容を正しいと信じて丸暗記するのではなく、教科書の内容に疑問をもち、本当に正しいのかを自分で確認するのが大学生の学術研究です。

広く考えていただきたいこと

公立の学校が特定の宗教・思想を布教するのは勿論ダメですが、教養として多種多様な宗教・思想を知り、その上で自身の思想信条を構築していくことは教育の一環として認められるべきものだと思います。その観点から現在の日本史教育における神道の解説は不十分かつ誤りの多いものであり、日本文化や神道愛する人々はもっと声を挙げるべきだと思います。

戦国時代の宗教観がわからないと戦国武将の心情を理解するなど不可能です。宗教に関する教養がないと歴史学は味気ないものになってしまいます。そういう意味でも教養としての神道・仏教・修験道はもっと学ばれていいものだと思います。

令和5年10月評議員会に対する所感①

ツッコミどころ満載

今回は神社新報3656号(令和5年10月30日)に掲載された十月定例評議員会の記事の感想を述べていきます。

まず佐野和史評議員の「この評議員会が宗教法人の評議員会であるのか、あるいは祭祀の伝統を貫くための、国史を貫いて不易であることを実現していくための評議員会として運営されるのか」という質疑はいわゆる「誤った二分法」と言われるものです。「宗教法人として祭祀の伝統を貫く」という可能性を考慮せず、「宗教法人では祭祀の伝統を貫くことができない」と決めつけて二者択一を迫っています。

しかも、この質問に「宗教法人としての評議員会」と回答すれば、「祭祀の伝統を貫くことを否定した」と回答者を攻撃する材料になりますし、「祭祀の伝統を」と回答すれば「宗教団体神社本庁を認めた」と勝利宣言することができると、どっちを選んでも回答者に不利になる落とし穴的な質問方法になっています。

論理的に議論するのであれば、佐野氏が質問に先立ち「宗教法人では祭祀の伝統を貫くことができないこと」を論証する必要があります。

統理さまは防止弁になるか

次に葦津敬之評議員の「仮に反社勢力が責任役員会に入った際、多数決の理論では反社に従ふことになってしまふが、今は統理さまの指名権で阻止できてゐる。それを崩すのはひじょうに危ないといふことを理解すべき」という主張は制度論として成立しません。

そもそも統理も責任役員(=理事)も評議員会で選出されます。そして統理になる条件は明文化されていません。近年は旧皇族華族など皇室に近い家柄で、神宮大宮司経験者がなる傾向にありますが、それはそのような人物を評議員会が選んだ結果であって、評議員会の多数決次第で家柄的にも精神的にも皇室とは距離のある人物が統理に就任することも規則的には可能です。

そして統理になるにも責任役員になるにも評議員から一定数の支持を集めないといけません。つまり反社勢力の人間が責任役員に一人でも入り込んだ時点で、評議員の一定数が反社勢力の人間あるいは息のかかった人間になってしまっていることを意味します。反社勢力からすれば責任役員会を乗っ取るためには、先に評議員会を乗っ取らないといけない組織構造になっています。

責任役員会に息のかかった人間を送り込めるだけの評議員の票を集められる反社勢力が統理の選出に介入しないなんてことありえません。反社勢力に都合の良い人物が統理に選ばれるように画策するでしょう。

統理が評議員会と別の機関や人物から任命される役職であれば防止弁になるかもしれませんが、現行の規則的に責任役員と同じ評議員会で選出することになっているので防止弁になりません。

神社本庁に反社勢力が入り込むのを防ぎたいなら反社勢力に関わりのある人物が評議員になれないようにするしかありません。