神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

マンション建設と氏子の権利義務

境内地にマンションを建設

都内の神社が境内地にマンションを建設し、社殿修繕費などの維持費を捻出する計画を進めていたところ、氏子や地域住民から反対の声があがり、ニュースとなりました。

これに対してコメント欄では反対する氏子が費用を負担すればいいという意見もありました。そこで今回は氏子の権利と義務について考えてみたいと思います。

【独自解説】1000年の歴史持つ神社の境内にマンション建設!?「お知らせ」掲示での説明に氏子や住民が猛反発!それでも建てざるを得ない切実な神社経営事情(読売テレビ) - Yahoo!ニュース

神社は氏子のものか?

昔から「神社は氏子のもの」といった主張を散見します。しかし、すべての氏子が所有者としての義務を果たしているかについては疑問が残ります。

神社が氏子の共有物であるならば、氏子は所有者として神社の必要経費を負担する義務も背負わねばなりません。権利と義務は一体ですから。

今回のケースだと、社殿の修理に2億3千万円が必要で、氏子が1000人です。そうすると単純計算で氏子1人あたり23万円を負担する義務があるということになります。樹木を伐採すれば批判がおきますし、マンション建設の契約には時間も手間もかかります。必要経費を氏子で割り勘した方が宮司や総代からすれば楽なのは明白です。しかし、今回のケースで宮司や責任役員、総代は氏子1人あたり23万円を徴収するのではなく、マンションを建設することで修理費用を捻出することにしました。氏子1人あたり23万円を請求しても集まらないからです。

規則における「氏子崇敬者」の定義

氏子には神社を維持するための義務があることは、各神社の規則(宗教法人には絶対必要)に書かれています。戦後に宗教法人法ができて規則をつくらないといけなくなったときに、神社本庁で準則(例文)をつくりました。ほとんどの神社がそこに自分の神社の名前を当てはめただけ、あるいは少しアレンジして使っています。神社本庁がつくった準則にはつぎのように書かれています。

第〇条 本神社を崇敬し、神社の維持について義務を負ふ者を本神社の氏子又は崇敬者といひ、氏子又は崇敬者名簿に登録する。

公告の対象とする信者は、氏子又は崇敬者の名簿に登録された者とする。

このように規則において「氏子」とは「崇敬する+維持について義務を負う」人なのです。そうなると「私は崇敬するし、賽銭も納めるけど、維持の責任までは負いたくない」という地域住民もでてきます。そういう人たちは氏子ではないのでしょうか?

宮座

歴史的に氏子の権利と義務は平等ではありませんでした。

  • 神社の維持費の大半を負担する代わりに神社の運営を任されるグループ(宮座)
  • 神社の維持に協賛するが、神社の運営にはノータッチのグループ(一般住民)
  • 神社の維持費用を負担しないけど祭典に参加するグループ(こども等)

西日本を中心に神社の神事や運営について独占的な地位を占めた特定のグループを「宮座」(みやざ)と呼びました。「宮座」という呼称をつかっていない地域でも、特定の家が神社の維持費の大半を負担する代わりに総代を世襲する例は珍しくありません。こうした特権を他の住民が認めていたのは、維持費の大半を負担していたからです。神社の運営権は維持を負担する義務と一体不離なのであり、神社の運営に参加できるのは一定以上の負担をしている人だけだったというのが神社運営の歴史です。

だから「私は崇敬するし、賽銭も納めるけど、維持の責任までは負いたくない」という地域住民は「氏子だけど、運営に参加する資格を持った宮座ではない」ということになります。

今回の報道もそうですが、「氏子」からの要望や意見については、その人が運営に参加する資格のある氏子(宮座)なのか、そうでないのかによって扱いが異なってきます。

神社本庁も対応を

神社本庁における「氏子」の定義は信仰上と規則上で異なっていて、信仰上の「氏子」は崇敬している地域住民なら誰でもなれますが、規則上の「氏子」には神社維持に関する義務を条件として求めています。規則上の氏子は「宮座」だと解釈すべきでしょうし、この辺はきちんと整理して説明する必要が神社本庁にはあるでしょう。

宮座の崩壊とこれから

もともと宮座は地主など氏子区域における富裕層です。金銭的に余裕があり、神社維持費の大半を宮座のグループで負担しているから、運営も宮座のグループで独占していました。ところが戦後の農地解放などで地主層とその他の住民との経済格差は是正されました。それに伴い神社維持費の負担も均等になってきました。そうなると運営の参加権も均等にならないといけませんが、同じ金額を奉納しているのにもともと宮座だった古株の家だけが総代になり、新しく転居して来た家は氏子のなかで発言権がないといった不平等だけが残ることになります。各地で氏子費などのトラブルが生じていますが、こうした歴史的背景があることは踏まえておく必要があるでしょう。

こういう状況にある訳ですから神社にとって喫緊の課題は「氏子」の定義を整理しておくことです。具体的には、維持費として何円以上を納めたら運営に参画できる宮座の氏子として認めるのかを明確にして周知しておくこと、氏子と地域住民の峻別(氏子会計と自治会会計の分離)などです。昭和の「なあなあ」で許された時代の「氏子」の定義は、権利義務を明確にすることが求められる現代社会では通用しなくなってきています。

言い替えると、現代は氏子組織の再編の時期であり、再編に成功するか否かが神社護持の命運をわけるでしょう。

準則にある「維持について義務を負う」が具体的にどこまでを意味するのかを明確にしないといけません。個人的には任意組合の原則や宮座の歴史から考えて無限責任に近い重い義務であると考えるのが妥当だと思っています。神社にとって最も費用がかかるのが修理です。神社を建て直すときに割り勘する程度の負担を負ってはじめて宮座に列するのであり、1年に数千円から1万円の氏子費では、将来の修理の積立には及ばず、その年の祭典に対する協賛金の域を脱しないと思います。

修理は寄付金だのみか?

世の中の宮司のなかには「社殿を修理するために頭を下げて廻って〇億円あつめた」と武勇伝を語る方もおられます。たしかに神社維持のために献身的な努力として称賛されるべきですが、将来の神職に対し同様のことを求めるのは酷です。人口は減少し、経済は停滞していますので修理のための寄付金を集める状況は年々悪化しています。「熱意をもって氏子の家を廻って修理費をなんとかかき集めるのが社殿修理に際して神職総代がすべきこと」という発想から脱却しないと、人口減少が進むなかで神職や氏子の負担が増えていくばかりです。

そもそも江戸時代の村の神主(たいていは地主層)や宮座は自己の田畑や山林から得られた利益を寄付して修理費の大半を捻出していました。自腹を切らず、神主と宮座が修理費を稼ぐパターンとしては植林や富突きなどがあります。上原敬二が境内の森林の一部を「経済林」と分類したように、材木として売却する目的で境内に植樹することが広く行われていました。また江戸時代に富突きが盛んだったことは周知の通りです。このほかにも商人に境内の一部を貸して茶屋などを経営させ、地代を納めさせることも行われました。このように神社の修理費捻出は必ずしも地域の寄付金だのみではなかったのです。

境内地の一部で商売したり、営林して修理費を捻出していた歴史を踏まえて考えれば、今回報道されたマンション計画自体が神社の信仰に反しているとは言えません。ただし、どこでも茶屋や経済林になった訳ではありません。本殿周辺の神聖な雰囲気を壊すことがないように、本殿の横に茶屋を出すことはしなかったし、禁足地や社殿の後ろの林を経済林として活用することはしませんでした。要するに境内の一部を茶屋などの商業用地として貸し出してもよいし、境内の林の一部を経済林にしてもよいが、そうした収益事業をやってよい区域と収益事業の場としてはいけない神聖な区域の線引き(ゾーニング)だけはきちんとしないといけないということです。

したがって今回報道されたマンション建設問題は「マンションが適正なゾーニングで設計されているか否か」で是非を判断しないといけない事案です。

ちなみに収益事業に該当するので貸している土地は固定資産税を納めることになりますし、不動産賃貸の収益も課税対象になりますので、納税もきちんとしないといけません(収益事業を行うための規則変更も)。