神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

藤原登コラム29号読後評

神道学栄えて…

藤原登氏の『レコンキスタ』(6月1日付)掲載コラム「神社本庁田中執行部は陥落寸前にー評議員会は北山議長のデタラメ議事運営で大紛糾ー」(神社本庁田中執行部は陥落寸前に|自浄.jp)において、東京農業大学初代学長の横井時敬の警句をもじって「神道学栄えて神道滅ぶ」と述べています。本歌である横井の警句の本来の意味や藤原氏のその後の文章から神道学を害悪と批判しているのではないのだと思いますが、神道研究者として言わせてもらうのであれば、神社神道には神道学が不足しています。それは現代だけの問題ではなく、大正時代に折口信夫によってすでに指摘されていることでもあります(折口信夫の神職批判 - 神道研究室)。

学殖に基づく信念

折口信夫が言いたかったことは、どんなに経営の才覚があっても、神道の専門知識に基づく信念がなければ神職として祭祀や神社護持の判断は下せないということです。

さて先日、小林弘幸氏がTwitterで産穢があるから出産後30日以内の母親は参拝すべきではないと述べて物議を醸しました。これに対し神道研究者として私見を述べました(小林弘幸氏の「産穢」論を検証する - 神道研究室)。私の意見が唯一の正解だと主張するつもりはありません。「気枯れ」から理論を立てる神道人もいるでしょうし、「延喜式」に回帰すべきという意見もあるかもしれません。しかし、根拠を示しながら自分なりの見解を述べることができなければ神道のプロとは言えないでしょう。

医学あっての医者であるように神道学あっての神職です。

教学とは何か?

藤原氏は「学問上の枠組みや体系が必ずしも明確ではない神道学の位置付け」と述べています。たしかに神道学には神道に関する事象の実証的研究もあれば、古典講読もあり、自己の信仰の言語化に重きを置いた神学的なアプローチも含まれ、全体的に複雑かつ多様な印象を与えますが、人文科学に属する学問分野としての地位を確立していることは、國學院大學神道文化学部と皇學館大学文学部神道学科の存在、両大学の神道学者による研究業績とそれに対する学界の評価、COEや科研費の対象となった事業などが証明しています。

むしろ位置づけが曖昧で議論が必要だと思うのは「教学」、「神道教学」です。神社関係者は当たり前のように「教学」という言葉を用いますが、「教学」とは何でしょうか?神道教学と神道学は何が違うのでしょうか?これについて神社関係者で共有される明確な定義はありません。「教学」の定義について統一見解を持った方がよいと思います。

本庁史

神道史は神道学の中核ですが、その神道史において神社本庁の歴史というのはほとんど研究されてこなかった感があります。教団の歴史がわからなければ教団の目的や創設の理念もわかりません。それでは適切な運営もできません。神社本庁も創設80年を目前にしていますので、本格的に「神社本庁という教団の歴史」を考究し、構成員に教授する体制を整える必要があると思います。実際に近年の本庁問題において神社本庁の記録と乖離した主張が散見されます。

その最たるものが「総長選出における統理の指名権」ですが、過去の記録を見る限り「役員間の選挙」で総長が決められていたと考えるしかありません(過去の統理による総長指名はどうだったのか - 神道研究室)。決定的なのは「神社本庁憲章」制定過程において、原案は「総長は理事のうちから統理が指名する」だったのに役員会で「民主的に反する」と意見が出されて修正されて、最終的に「神社本庁憲章」にも庁規と同じく「役員会の議を経て」がわざわざ追加されているという歴史的事実です(神社本庁憲章制定過程から総長選出を考える - 神道研究室)。他にも「神社連盟」案において下から選出することを原則としている点も傍証になるでしょう(神社連盟から総長指名を考える - 神道研究室)。

また過去の総長選出において、院館2つの学閥がそれぞれ候補を擁立して選挙していた記録が散見されます。もし統理に指名権があるのであれば、それぞれの学閥が自身の候補者を指名してくれる統理を擁立しようとするか、統理に対する猟官運動が起こるはずです。しかしながら総長選出の選挙に統理が巻き込まれた記録が確認できないことから、歴代統理は総長選出の政争の蚊帳の外に敢えて身を置いていたと考えるのが妥当です。そして、それは中立公平な教団の代表であるための合理的判断でもあります(神社本庁統理の条件 - 神道研究室)。

このように「総長選出における統理の指名権」は存在せず、役員会の議決で選出された総長を形式的に指名すると考えざるを得ない記録はいくつも存在しますが、役員会で多数決をしようとしたのに統理の上意下達で決まったとか、役員会の多数決を無視して統理の指名で総長が決まったといった「統理の指名権」の存在を証明する慣習・前例の記録は見つかりません。役員会で「統理一任」と議決したのはそのときだけの決定権の委任ですので、統理に指名権が存在することの証明にカウントされません。逆に「統理一任」と役員会が議決した記録があるのであれば、それは役員会に総長選出の権限があることの証明になります。

このように神社本庁の歴史を学問的に調べることで、組織運営でも判断材料を得ることができます。

法律問題として

神道学の話はここまでにして、次は法律関係の問題について考えたいと思います。

藤原登氏は今回の評議員会において神社本庁側が小川尚史弁護士が同席させた対応について、「神社本庁の正常化を求める評議員をかつての総会屋と同列に見做すことは、評議員会を完全に冒涜していることを意味する」と批判しています。

しかしながら、神社本庁は代表役員の地位をめぐり役員会で規則の解釈がわかれて裁判になっている状況です。評議員から裁判の状況や法律解釈について質問があったときにより正確な説明をすることこそが、評議員を尊重した姿勢であると思います。企業の株主総会でも法律に関する説明をきちんと行うために顧問弁護士を出席させることがあります。株主総会が法律に則って運営されているかを確認してもらうために弁護士に依頼することもあります。だから「総会に弁護士がいる=総会屋対策」ではないのです。そもそも神社本庁側から評議員を総会屋扱いするような言動があった訳ではなく、神社本庁側が評議員を総会屋と同列に見做したというのは藤原氏の推測の域を脱しません。藤原氏は小川弁護士の所属する日比谷パーク法律事務所を「総会屋対策に長けている」と評していますが、これも上述の通り適切な表現ではありません。

緊急動議

評議員会1日目に統理指名の総長による執行部刷新を求める緊急動議がなされたようです。具体的な内容について情報が出回っていないので、藤原氏のコラムだけでコメントすることは差し控えます。ただ動議が規則変更に関わるものであれば3分の2の賛成を必要とし、そうでなければ過半数でよいことになるので、動議の内容を確認する作業は必要ですし、曖昧な表現があれば修正を求めるのは何ら不自然ではありません。要するに、動議というのは誰に何を要求するのか明確でないといけないのです。

宗教法人法85条

コラムの最後に藤原氏は宗教法人法第85条を引用し、「神社本庁総長は宗教法人の代表役員である以前に、宗教団体としての役職であり、その任免の権限は、最終的に神社本庁評議員会及び統理にある」と述べています。

藤原氏が言いたいことは、次ような意味だと思います。

宗教団体として統理が総長を指名し、宗教団体の総長がそのまま宗教法人の代表役員(総長)になることは宗教団体の慣習なのだから、宗教法人法第85条により裁判所は干渉できない

しかしながら、「宗教団体として統理が宗教団体の総長を指名する」までは宗教団体の慣習だと言えますが、「宗教団体の総長がそのまま宗教法人の代表役員に就任する」ことは宗教法人法に定める代表役員に関する事項ですので、この方法が宗教法人法及び宗教法人規則に照らし合わせて妥当なものであるか審判する権限は国家にあります。

そもそも上述の通り神社本庁憲章の規定も役員会で議決した総長を統理が形式的に指名すると解釈せざるを得ませんし、評議員会に総長選出結果を報告し承認を求める前例も規定もありません。そのため「任免の権限は、最終的に神社本庁評議員会及び統理にある」という藤原氏の主張は憲章・庁規の条文にも過去の総長選出の歴史的事実にも合致しません。