神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

「安倍晋三」神社について

神社建立計画

「安倍元首相を神として祭りたい」 世界遺産の宮司が語る神社建立計画(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

安倍晋三元首相を祀る神社を長野県に建立するというニュースが話題になっています。今回はこのニュースを神道研究者の観点から解説していきます。

宗教法人なのか?

Yahoo!ニュースのコメント欄では「宗教法人」にからんだ意見が多く見られましたが、この神社は宗教法人ではありません。そもそも、すべての神社が宗教法人ではなく、宗教法人になっていない神社も多数あります。例えば町内会や商店街などの団体で管理するお稲荷さんの祠などです。

なぜ宗教法人ではないと言い切れるかというと、神社を建立してすぐに宗教法人には認められないからです。神社を建立し、信者(氏子崇敬者)を集め、宗教団体としての実績を積んだ上で申請してはじめて神社として認められるからです。この神社は建立されていないのですから、宗教法人になっているはずがないのです。

しかも今回のニュースをよく読むと、建立者は私有地に建立し、希望者には参拝を認めるという趣旨の発言をしています。神社が宗教法人として認められるには、広く参拝を解放する必要がありますので、設立者は宗教法人にしたいと思っていないようです。

つまり、この神社は宗教法人としての神社ではなく、固定資産税を納付している私有地に建立され個人が自費で祀っている神社だということです。そうなると戦前の法律上は「神社」ではなく「祠」に分類されます。

神社と祠は何が違うのか

「神社」と「祠」は何が違うのでしょうか?両者がごちゃ混ぜになっている時代もありましたが、明治維新から終戦までの間は明確な基準がありました。

  • 「神社」・・・国家が崇敬する対象として創建を許可し、社格と法人格が与えられ、社格に応じて神饌幣帛料が供進される
  • 「祠」・・・・個人がその信仰心から建立し祭祀を行う。法律上は神棚と同じ扱いであり、社格と法人格は与えられない。

明治5年以降、「神社」を建立するためには政府の許可が必要となりました。許可するための審査において「その神社の御祭神は国家として崇敬するにふさわしいか」という点も検討されました。そのため戦前は神社で祀られることは国から偉人と認定されるということを意味していました。

江戸時代から祀られていた祠であっても、政府が「国として崇敬すべき対象ではない」と判断されて、神社になれなかったケースもあります。例えば、行き倒れた旅人の怨霊、狐狸天狗などです。

一方、個人が私有地で祀るのは自由でした。狐狸天狗でも可能です。ただし、私有地の祠を大きくして、誰でも参拝できるようにすると「神社」と区別がつかなくなりますので、個人の祠は不特定多数の人に参拝させてはいけないという通達が出されています。

今回のケースは個人が祀るのであり、そもそも神道指令によって国家による審査制度がなくなりましたから安倍晋三氏を祀る神社を建立したからといって、国家が安倍晋三氏を偉人として認定することにはなりません。

神道ではみなが神

そもそも神道ではお亡くなりになったひとはみな神です。だから神道で葬式(神葬祭)を行うと誰でも「大人命」あるいは「刀自命」と呼ばれるようになります。したがって「安倍晋三大人命」は何か特別な扱いをされている訳ではなく、神葬祭を行った他の人々と同様の扱いです。

こんなことを言うと「知り合いが神道で葬式したけど、その人は社で祀られなかった」と反論する人もいるかもしれません。たしかに一般の家庭では霊舎で故人の霊を祀ります。神道式の仏壇を「霊舎」(みたまや・れいしゃ)と言い、普通は家のなかに安置するものですが、子孫がお金持ちだったり、敬愛する人が多かったりすると、霊舎を大きくして野外に祠を建立することもあります。有名なところでは国学者賀茂真淵を慕う弟子たちが建立した「縣居霊社」(現在は縣居神社と改称)があります。今回のケースが他の神葬祭と違う点があるとしたら、祠を建てる意思とそれを可能にする資産(土地・建築費)があるという点だけです。

では社で建立してもらった故人の霊は東照宮徳川家康)や天満宮菅原道真)と同格なのでしょうか?それは違います。幕府は朝廷にお願いして「東照大権現」の称号をもらいましたし、天満宮も「鳳輦」という本来は天皇専用の御輿をつかうことを朝廷から許されました。東照宮天満宮も朝廷から「国として崇敬すべき霊」というお墨付きをもらっているのです。

要するに、故人の親族・知己が祀っている段階は霊舎・霊社です。霊社が「神社」になるには朝廷(皇室)から「国家として敬意を払うべき霊」の認定を受ける必要がありました。その古代からの慣習を制度化したのが戦前の「神社」と「祠」の区別です。

神像

建立者は神像を祭神とすると述べていますが、これは一般向けにわかりやすく説明しただけで厳密には「霊代」(みたましろ)が像だということです。「霊代」は神霊が現世に留まる依り代であり、依り代そのものが神様ではありません。今回のケースでは安倍晋三氏の像に安倍晋三氏の霊(分霊)を憑依させるということであり、霊代は像ではなく鏡や故人の遺品でも可能です。像を選んだのは建立者が奉仕して来た神社にちなんでのことと拝察します。

私祭としての祠

普通は「神社」と「祠」を区別しません。商店街が共同で管理する稲荷社、造船会社が工場の安全を祈って建立した金毘羅社といった「祠」も一般人にとっては「神社」と変わりがありません。しかし、国家とのつながり、信仰の範囲、公益性といった影響力を考える上では神社と祠の違いを意識しておく必要があります。

安倍晋三元首相は影響力のある政治家でした。その政策に対しては賛否両論があります。安倍氏に対し批判的な人々のなかには、国家が安倍晋三氏を神聖化してその政治思想を将来にわたって国民に押し付けることを懸念する人もいるかもしれません(そうした意見もすでにコメントに散見されますが)。しかし、神道指令により国家による祭神審査がなくなりましたので、神社で祀られたとしても、それは国家が偉人として認定したことにはなりません。したがって安倍元首相の神聖化のはじまりを懸念するのは杞憂です。

ましてや今回のケースでは、神職である個人が私有地に私費をもって祠を建立し、故人の霊の安寧を祈るという私的な祭祀の「祠」です。国家ではなく、個人の信仰で行う私祭の「祠」として見るべきでしょう。