神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

斎藤幸平氏の「コモン」論は現場から乖離している

外苑はコモンか?

新進気鋭のマルクス研究者である斎藤幸平・東京大学大学院准教授が外苑再開発についてコメントしました。斎藤幸平「企業に商品化される神宮外苑」の大問題 「私有地だから自由」は社会の豊かさを破壊する | 環境 | 東洋経済オンライン

斎藤氏は外苑を「神宮外苑のような空間は「コモン」(社会の富、共有財産)であり、それは私たちの手で守るべきものだ」と断言します。ここまでは従来の反対派の主張と同じですが、斎藤氏は「私有地に対して部外者がとやかく言うべきではない」といった再開発に対する賛成意見に対して「このような考え方はまさに「魂の包摂」(※)の典型だ」と反論しています。

しかしながら、この反論は反論になっていません。そもそも「魂の包摂」とはマルクスが『資本論』で唱えた概念で、東洋経済オンラインの注釈によれば現在のマルクス主義者は「労働の現場だけでなく資本の論理に従って生きるようになること」という意味で使用しています。

さて斎藤氏の反論は、その根拠である「魂の包摂」、つまりマルクス主義が正しいという前提でしか成立しません。20世紀における壮大な社会実験の結果を見れば、マルクスの理論と思想を鵜呑みにできないことは明らかです。

簡単にまとめてしまうと、「私有地に対して部外者がとやかく言うべきではない」あるいは「神宮外苑を維持するにもお金がかかるのだから、(再開発で維持費を稼ぐことは)仕方ない」という意見に対して、斎藤氏はそんなのはマルクスが許さないぞと言っているようなものであって、論理的な反論になっていません。このような噛み合わない議論に陥ってしまうのは、斎藤氏の視点が現場から乖離しているからです。

現場の視点で考えよ

あるものを「みんなのもの」(コモン)とした場合、みなで楽しみを分かち合う「享受」と同時に、維持するための「負担」も分かち合わないといけません。ところが反対派も斎藤氏も「享受」ばかりを要求し、「負担」を分かち合おうとはしない。マルクスがよみがえったら「私の理論は労働者の自立のためにあるのであって、フリーライダーを容認するものではない」と怒るでしょう。

現場の人々は「平等」に敏感です。「自分だけ楽しみが少ない」または「自分だけ負担が多い」と言った場合、すぐに怒りの声があがります。不公平を改善してほしいという当然の要求です。だから神社の祭りでも、自治会の行事でも、リーダーになる人間は利益・負担が偏らないように細心の注意を払う。「負担の平等」というのは「自治」にとって基本中の基本です。「享受」と「負担」のバランスが崩れたら「自治」組織が崩壊しかねません。これが「現場の感覚」です。

明治神宮崇敬会を軽視すべきではない

斎藤氏は「私的所有の権利は、すべての自由を保障するものではないからだ」とも主張しますが、だったらどこまでが保障されて、どこからダメなのかを法的根拠と共に示すべきでしょう。それが研究者としての仕事です。

また外苑の歴史について次のような見解を示していますが、こちらも的外れです。

神宮外苑の公共性の高さには特別なものがある。歴史を見ればすぐにわかるが、100年前に全国から献金や献木があり、10万人以上の勤労奉仕でつくりあげられた。現代で言う、クラウド・ファンディングであり、ボランティアだ。戦後に国から明治神宮に格安で払い下げられた際にも、「民主的に管理すること」という条件付きだった。

神社は、氏子崇敬者が集まって総代を決め、総代が集まって責任役員を決め、責任役員会で運営を決定するということになっています。明治神宮の財産も明治神宮奉賛会を中心とした崇敬者から選ばれた総代・責任役員によって「民主的に管理」されています。その「民主的な管理」の決定が「再開発」なのです。

創建時に献金や献木を集めて外苑をつくったのは明治神宮奉賛会です。奉賛会は事業を完遂した1937年に解散し、その後は公法人・別格官幣社として国家の責任で維持されていく予定でした。戦前期に神社の民営はできませんでしたので。ところが敗戦と神道指令により明治神宮は民間の宗教法人になることになりました。このままでは維持できません。そうしたときに明治神宮(内苑・外苑)を守るために、浄財を寄付しようという立ち上がった崇敬者によって結成されたのが(一財)明治神宮崇敬会です。創建時だけではなく、戦後もずっと全国崇敬者からの「クラウド・ファンディング」的な方法で内苑・外苑は維持されてきたのです。だから明治神宮の運営に対して意見を述べることができるのは維持のための寄付をしてきた明治神宮崇敬会だけです。

明治神宮の運営に口を挟む権利があるのは明治神宮護持のために寄付してきた人だけなのに、斎藤氏も反対派も「全国民」あるいは「都民」にすり替えてしまっている点も根本的な勘違いです。このように明治神宮(内苑・外苑)を守るために寄付をしてきた明治神宮崇敬会を無視している時点も斎藤氏の理論に欠けている視点です。これも現場感覚から乖離しています。