神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

「臨時評議員会の早期開催を強く要望する」論評

質問

令和6年11月25日付で「評議員会有志一同」が作成した「臨時評議員会の早期開催を強く要望する」という文書(以下「要望書」と仮称する)を受け取った方から情報提供して戴きました。今回はその内容について論評したいと思います。

総長を決めるのは?

今回は要望書を引用し、コメントしていく形で論評していきたいと思います。まずは冒頭の

先の評議員会において、本庁当局は、最高裁決定後の対応策を何ら議論することなく、役員会で議論するとして議事を閉じ、多くの評議員からの要望があったにも拘わらず、この問題を解決するための臨時評議員会を開催しようともしなかった。

神社本庁庁規12条に「総長は、役員会の議を経て、理事のうちから統理が指名する」と、理事・監事を選任するのは評議員会、総長を選任するのは役員会と明記されています。今回の裁判は総長選任に関するルールを確認するものであり、要望書の「最高裁決定後の対応策」というのは総長選任しか考えられませんから、その対応策を議論するのは、総長選任の権限を有する役員会です。だから役員会で議論するのは当然の事であって、むしろ役員会で議決することになっている総長選任に関して評議員会で議論しろという主張は庁規に反します。

要望書では上記文章のあと役員会より評議員会が上位であること、総理が「代表」「統督」という教団の上位者であることをしきりと主張しますが、上位者に全ての権限があるとは限りません。庁規に役員会で決定する事項であると明記してある以上、評議員会が役員会よりも上位の決定機関だったとしても、総長選任については役員会に決定権があります。それが気に入らないのであれば、庁規12条を変更をすればよいだけのことです。

そんな慣例ありません

これまでの慣例では「統理一任」とされてきたものが破られ

総長選任は統理一任という慣例があったという主張はこれまで再三なされてきたのですが、そのような慣例があったことを裏付ける証拠・記録は提示されていません。「統理一任」という慣例がなかったことは地裁判決(20p)でも確認されていることです。

むしろ過去の記録を確認すると、総長選任は実質的に理事同士の選挙であり、統理の指名は形式的なものであったことがわかります。

統理指名権という慣例 - 神道研究室

過去の統理による総長指名はどうだったのか - 神道研究室

慣例があったと主張するのであれば、その典拠を示す必要があります。

本庁職員は誰に仕えるのか?

一方、統理は、指名書と指示書を本庁職員に手交されたにも拘わらず、当該職員はこの文書を黙殺し、公にしていない。統理に仕えるべき職員が誰の指示で黙殺したのかわからないが、このことは職務命令という点からも大きな問題であることは明らかである。

ツッコミどころが多いのですが、まず神社の職員(神職・巫女等)は御祭神に仕える者であって宮司の家来ではありませんし、本庁職員も全国神社の御祭神・本庁大講堂に祀られる神祇に仕える者であって統理・総長の家来ではありません。I参事も裁判によって懲戒処分不当という判決が下ったら真っ先に本庁大講堂に参拝しています。神道としては「統理<御祭神」であるはずであって「統理に仕えるべき職員」という表現は御祭神を軽視しているとの批判を免れません

次に指名書と指示書ですが、鷹司尚武統理より前の統理で指名書と指示書を出した人物がいたかどうかによって評価が変わります。少なくとも公開されている本庁規程には指名書や指示書は定められていません。統理の指名書を出すのが規程や慣例があるにも関わらず黙殺したら業務命令違反でしょうが、権限も規程も慣例もない文書を手渡されても対応のしようがありません。統理が指示を出すという行為にも総長の補佐が必要であることは庁規40条5項から明らかです。

総長に指名するなど到底できない

統理の御見解は、先の不当な不動産売却、それを内部告発した職員の解雇の総括もしないで、その責任者である田中氏は統理の命にも従わず、補佐する様子もないことから、総長に指名するなど到底できないとして一貫されている。

まず「総括」とは具体的に何をすることを求めているのでしょうか?不動産売却については再発防止の規定改正を行ったと神社新報で報じられていますし、裁判で懲戒処分が不当とされた職員はすでに職場復帰しています。このように判決に基づき反省点を改めているのであって、これ以上に何かを求めるのであれば「総括」などというあいまいな表現ではなく、具体的に何をすべきかを示すべきではないでしょうか?

次に田中氏を「総長に指名するなど到底できないとして一貫されている」とのことですが、前回評議員会において「絶対に田中恆清だけは指名しない」と断言しませんでした。改めて議論して推挙された人物を「受け入れる」という趣旨の発言をしました。改めて推挙された人物が田中氏であっても受け入れるということになりますので「総長に指名するなど到底できないとして一貫」は事実と異なります。

ただ「受け入れる」という表現は微妙です。なぜならば「指名する」とは明言していないからです。この言い方には3つのメリットがあります。第1に「田中恆清だけは絶対に指名しない」と明言していないことによって田中氏から「役員会で議決された人物を指名しないのは庁規違反だ」と訴えられるリスクを大幅に減らすことができます。仮に訴えられても「指名しないとは言っていない」と抗弁できます。ただ注意せねばならないのは、もし裁判になっても絶対に勝てる自信があるのであれば、普通は「田中恆清だけは絶対に指名しない」と断言するはずです。要望書に付随する「このたびの判決結果について」という文章には「統理の指名と役員会の意見が一致しない限り、総長は決まらないと解釈することは、法律的にも何らおかしなことではない」と述べられていますが、その理論に絶対の自信があるのであれば統理から「受け入れる」という言葉が出てくるはずがありません。第2に改めて議論の機会を得ることで、ひょっとしたらアンチ田中の役員が多数を占める可能性があるかもしれません。第3に田中恆清氏が役員会で議決されたとしても「受け入れるとは言ったが指名するとは言っていない」と指名を回避することができます。この時点で田中恆清氏から裁判を起こされる可能性がありますが、現役員の任期が令和7年6月末まですので裁判が本格的に始まる前に時間切れです。

神社新報評議員会の記事を読んだとき、「受け入れる」という表現は裁判を起こされることを回避しつつ、田中恆清氏を総長に指名しないで任期満了の時間切れを待つ戦術なのかなという印象を持ちました。

天皇裁量権

 文書には、統理には総長の指名権も役員会で決めた者の拒否権もないとされ、さらに憲法解釈を持ち出し、天皇に裁量の余地がないのと同じとも書かれている。

 天皇の御立場に関しては、神社界の根本的な考え方を否定するものであり、特に、天皇の裁量については、神社界が訴えてきたものと全く違う上に、戦後の先人たちの地の滲む運動を真っ向から否定するものになっている。

 仮に、憲法上、日本国の象徴であられる天皇の国事行為は限られるものだとしても(憲法1条・7条)、宗教団体の代表である統理は、実質的にも宗教活動を指導されていることから

天皇陛下裁量権があるなんて学説は私は見たことも聞いたこともありません。そんな主張していたら法律関係の試験に合格できません。天皇陛下裁量権を認めた場合、国会で指名された人物を天皇陛下が総理大臣に任命しない権利、あるいは国会で指名された人物とは別の人物を任命する権利があるということになります。今まで「国会では石破茂氏が指名されましたが、天皇陛下は果たして誰を任命するのでしょうか?」なんてニュースを見聞きしたことがありますか?天皇陛下裁量権がなく、国会で指名された時点で実質的に総理大臣になることが確定しているから「天皇陛下は誰を任命するのか?」なんて議論は発生しません。

天皇陛下裁量権がないという現行法制度に保守の憲法学者も「天皇陛下裁量権がある」なんて反論を唱えていませんし、神社界も「天皇陛下裁量権を認めるべき」なんて運動はしていません。したがって前半部分は事実誤認です。

さて問題なのは3段落目の「仮に」のあとです。上の2段で天皇陛下に裁量の余地がないとは認めないみたいな主張をしておいて、最後の1段であっさりと「国事行為は限られるもの」だと自説を引っ込めているんですよね。天皇陛下裁量権があると確信しているのであれば、「仮に」でも裁量権がないことを認める書き方はしません

要望書のこの部分は神社本庁側の小川尚史弁護士の主張を批判しているのですが、小川弁護士は統理が総長の補佐を得て行われる神社本庁代表としての行為の類例として、天皇陛下が内閣の助言と承認を得て行われる国事行為を挙げているに過ぎません。つまり要望書は、小川弁護士が統理の行為と国事行為を似たような制度と述べているのを、天皇と統理を同一視していると完全に誤読して批判している訳です。ちなみに天皇と統理を同一視してきたのはむしろ統理を支持する花菖蒲ノ會であることは過去のブログで指摘してきた通りです。

最後に「実質的にも宗教活動を指導されている」とのことですが、具体的にどのような指導を実施されたのでしょうか?例えば動物虐待の批判を浴びた神事がありました。統理が宗教活動を指導されてきたのであれば、当該神社にどのような指導したのでしょうか?それとも批判者に対して神事が動物虐待ではないと説諭をされたのでしょうか?あれだけ報道されていたのに知らなかったはずがありません。当該神社の問題だと言うのであれば統理の指導はどこまでなんでしょうか?

宗教法人としての庁規には統理の無答責が総長の補佐を得るという条件付きで明記されていますが、宗教団体としての神社本庁憲章には無答責の記載がありませんから、宗教活動への指導が実際に行われているのだとしたら、それは統理の権限と責任で行われているということになります。何より宗教団体の代表としての権利のみ主張し、責任について言及がないのはバランスに欠くと言わざるを得ません。

書式など

私たちは、来る第63回神宮式年遷宮に向けて、神社本庁の健全化を図るための臨時評議員会の早期開催を強く望むものである。

要望書は、天皇裁量権が認められるべきという主張をしておきながら、数行のあとに簡単に引っ込めました。文末でも式年遷宮に言及していますが、天皇式年遷宮に言及しなくても要望書は成立します。知人の神職から聞いたところによりますと、神社界では挨拶をする際には内容に関わらず皇室の弥栄を願い式年遷宮に言及しないと神社界から批判されるという風土があるそうです。この文章で天皇式年遷宮に言及したのも、その習慣によるものかとも思います。しかし、おめでたい内容の文章ならともかく教団内のトラブルに関する文章にまで「天皇」や「神宮」に関するワードを使用するのは畏れ多くて避けたいと個人的には思いますし、神社界の慣習を知らない人間がこの文章を読んだら自身の主張を正当化するために天皇式年遷宮に言及しているという印象を受ける可能性もあります。

また要望書は「陛下」をつけず「天皇」で統一していること、神社界の公文書の書式は縦書きであるはずなのに横書きになっていることにも違和感を感じます。この文章を受け取った評議員のなかには「開催するのか?」と思われている方もいるかもしれませんが、まず正式な窓口(「神社本庁文書管理内規」によれば神社本庁内に文書主管課が設置されている)に届いているかを確認した方がよいでしょう。神社本庁は組織であり、規程に基づいて運営されているので、今回の要望書に限らず全ての文書は定められた書式と手順を守り正式な窓口に届いていなければ、神社本庁も対応をはじめることはできません。

誰に発送されたのかなど、この要望書については不明な点も多く、情報がありましたらコメント下さい。