神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

神社本庁統理の条件

神社本庁統理という役職

神社本庁には、宗教法人のトップ(代表役員)である総長と宗教上のトップである統理の2人のトップがいます。厳密には統理と総長の上に総裁がいますが、役員会に参加したり、決裁に関与するのは統理・総長までで、総裁は運営には完全にノータッチです。そのため他の団体における「名誉総裁」と同じだといっていいでしょう。

総長は役員会の議を経て統理が指名することになっていますが、議を経て指名というのが形式的なものか、役員会の議決を無視して統理が指名できるものかについて、現在、裁判になっているのは既報の通りです。

裁判結果がどうなろうとも今回のトラブルは尾を引くことが予想されます。統理の指名が形式的だということになれば「なぜ総長の上に統理という役職を設けたのか」という疑問を多くの神社関係者が抱くことになるでしょうし、役員会の議決にかかわらず統理の指名が優先されるというのであれば総長になりたい人は統理(あるいはこれから統理になりそうな人)に対し自身の売り込みをするようになるでしょう。

したがって、これから「統理とは如何なる役職でなぜ設けられたのか?」という議論が出てくるでしょう。それは総長選挙に統理が介入した時点で不可避となりました。今回は統理について考究したいと思います。

教学的な問題は誰が判断するのか?

宗教法人には宗教的な側面(聖)と法人的な側面(俗)があり、一般には統理は「聖」のトップ、総長は「俗」のトップと認識されています。しかしながら、男系護持を支持する見解が「総長談話」として出されたように教学的な問題は必ず統理の名において判断される訳ではないのも事実です。事務組織としても総長が教学部門である総合研究所長を兼ねることになっており、教学=統理、世俗的事務=総長、というような役割分担をしている訳でもありません。

教学的な問題についても総長以下の役員が実質的に決定していることは過去の通達などを見れば明らかです。そのため「宗教的・教学的な判断を下すために統理がおられるのだ」という主張は通用しません。

神社連盟案には統理という職はなかった

葦津珍彦の神社連盟案の段階では統理という役職は存在しませんでした。

【神社連盟案】総裁ー会長

神社本庁】 総裁ー統理ー事務総長

会長は「各府県神社連盟より代表を選出して中央連盟評議会を構成し、評議会において会長を選任する。 中央評議会は連盟の最高決議機関とする」(神社本庁総合研究所(2022).『神社本庁史稿』.神社新報社,pp.24.)という役職であり、現在の事務総長とほぼ同じだということがわかります。これに対し、神社連盟案の「総裁」は「会長の上に総裁を推戴し、一定資格の神社には特に総裁より神饌幣帛供進使を差遣する」(出典同上)とあります。

ちなみに葦津珍彦の構想は「連盟ノ会長ハ全ク下カラノ選出ニヨリテ決セラレル」(神社新報政教研究室(1988).『近代神社神道史』.神社新報社,pp.239.)ですから、統理が役員会の議決にかかわらず上から指名できるという花菖蒲ノ會の主張は葦津の考えとは真逆なのは明らかです。

神社連盟から総長指名を考える - 神道研究室

このように歴史的経緯を見ますと、当初の神社連盟案では総裁と総長だけになるはずだったのが、実際の神社本庁になる段階で統理を追加したのであり、「なぜ追加したのか?」について考えないといけません。

官社の宮司が民社の神職の命に服したか?

原案になかった「統理」という役職が発案された経緯について詳細な記録は公になっていないので推測するしかありません。ここで当時の状況を考えますと、神祇院の事務のなかでも重要事項、特に官国幣社の申請のなかには内務大臣の決裁ののち上奏裁可を経てから施行されるものもありました。そのことを官国幣社宮司も誇りに思っており、自分たちは府県社以下とは違うんだという意識が強くありました。そのため官国幣社宮司神宮奉斎会専務理事だった宮川宗徳の辞令・通達に素直に従ったかというと疑問が残ります。また全国神職会の歴史をひもとくと会の通達に異議を申し立てる例が散見されます。このように「同じ神職の命令は聞かないが、神職より上の存在の命令なら素直に聞く」という風潮が戦前の神社界にはありました。

かといって、発足直後の神社本庁GHQから危険な国粋主義的団体とにらまれる存在であり、解散を命じられる可能性もありましたから、元皇族である総裁に責任が及ぶようなことがあってはなりません。そうすると総裁と会長の間に「辞令・承認の名義人」たる役職を設け、そこに官国幣社宮司が平伏せざる得ない人物、つまり旧華族などにご就任いただこうと発案されたのが「統理」という役職ではないかと推測できます。そう考えると統理には総裁をお守りする役割もあるといえるでしょう。

実際に発足当初の神社本庁統理は代務者が続いたことから考えても、名目上のトップであり、実務上のトップではなかったことは明らかです。

つまり

  •  総裁・・・最高権威だが責任を追及されることは絶対にあってはならないので辞令・通達の名義人をお願いすることは畏れ多くて憚られる
  •  統理・・・総長以下役員の決定に権威を与えるために、最小限のリスクを冒していただき辞令・承認などの名義人となっていただくご存在
  •  総長・・・神職・総代の代表であって神社本庁の実質的な責任者

という役割分担なのだといえます。

統理が責任追及されることがあるのか?

神社本庁庁規には「統理」の行為は総長の補佐を得てなされるものであり、統理が責任を追及されることがないことが明記されています。しかし、庁規には統理の承認を必要とする事項が定められており、かつ辞令などの名義人となっている以上、実際に裁判になった際に対外的にどこまで「無責任」が通用するかには疑問が残ります。

そういう意味において神社本庁庁規をはじめとする諸規程は中途半端で古いままであり、統理の責任が限りなくゼロに近づくように法律の専門家を交えてゼロベースで見直した方がよいと思います。

花菖蒲ノ會が主張するように統理に総長を指名する権限があるのであれば、その総長が不祥事をおこした場合の指名責任は統理に及ぶことになるでしょう。役員会の議決に形式的に指名すれば責任はすべて役員会にありますが、役員会の議決に反して指名すれば後になって神社関係者から「あのとき統理がAさんじゃなくてBさんを指名した方がよかった」と批判される可能性は生じます。そのため花菖蒲ノ會の路線は統理の権限を強化すると同時に責任追及されるリスクも高めるものです。

統理に求められる条件

以上の考察から統理に求められる条件は次の2つです。

  1. 朝廷における権威
  2. 絶対的中立性

まず「権威」ですが。神社本庁統理に求められている「権威」は役行者のような荒行を積んだ修行者としての宗教的権威ではありません。それは細川護貞氏のように宗教者ではない統理がいることから明らかです。つまり統理というのは「最も修行を積んだ神職が就く地位」ではないということです。統理に求められてきた「権威」とは旧皇族・旧華族といった皇室との近さからくる権威です。

そういう観点から皇室との縁戚関係がある神宮大宮司経験者の統理就任が続いているということは神社関係者にとってありがたいかぎりだといえるでしょう。終戦直後の神道人がこの数十年の統理を聞いたら感涙することは必定です。

統理の権威は朝廷をバックにしたものですから神社界は統理に責任が及ぶような状況をつくってはなりません。統理が責任を追及されないためには、統理は絶対中立の立場を保たなくてはなりません。内閣総理大臣を任命するのは天皇陛下ですが、総理大臣がどんな不祥事をおこしても任命責任を追及されることがないのは任命が形式的なものだからです。例え、皇室に批判的な政治家・政党であっても国会で指名された以上、天皇陛下が任用を拒否なさることはありません。

戦前の内閣総理大臣候補者に天皇陛下が組閣を命じる「大命降下」も元老や重臣の助言を必要とし、助言した元老や重臣が責任を負うようにしていました。

それと同じように統理が責任を追及されない権威であるためには、どこまでも中立を貫かないといけません。実際に過去の統理は「総長選挙」には介入しませんでした。とある評議員回顧録には過去の総長の座をめぐる攻防が記されていますが、そこに統理の介入は一切ありません。

統理とは

このように「統理」とは神職・総代がまとまるために名目上の盟主として君臨する中立的な存在なのであり、神職のポスト争いに巻き込んではならない存在なのです。