神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

外苑再開発は神道的に正しいのか?

外苑再開発について

これまで外苑再開発について、いくつかの視点から論評してきました。

今回は「神道の信仰から考えて外苑再開発に大義があるのか?」について検討してみたいと思います。

修理固成

世の中には神道は古儀や伝統を重んじるものであるから、外苑は再開発せず、古いままであるのが正しいと考える人もいるでしょう。

たしかに神道には神代を理想とする側面がありますが、一方で進化させていくことをよしとする精神もあります。神道の進化の精神を象徴しているのが「修理固成」の神勅です。神道は守旧ではなく、かといって古きを捨てて新しきに流れるでもなく、伝統と進化のバランスを取るのが神道の精神であって、そのことは『古事記』編纂の基本である「稽古照今」にも端的に示されています。歴史の連続性を重んじ、現在を過去から未来へと至る中間点と位置付ける「中今」(なかいま)の精神も同じです。少なくとも「神道は伝統だから古いままが最善なんだ」とか「神道では変化を否定している」という考え方は神道の理解として正しいとは言えません。

祭祀の在り方を見ても、古代の神祇祭祀に常設の社殿はなく、人々は神籬や一時的な建物をたてて祭祀を行っていました。それが常設の社殿へと発展していき、それぞれの信仰に基づく「〇〇造」という様々な社殿の形態や優れた歴史的建造物を生み出しながら今日に至ります。そうした進化の歴史のなかで生み出されたのが「外苑」なのです。

外苑に関する研究

外苑は歴史的大事業でしたから、それに携わった人々の歴史、造園的な価値、社会的な意義など多数の研究がありますが、「神道にとって外苑って何なの?他の境内地とどこが違うの?」について論究したものとしては以下のものがあります。

このうち中嶋氏は「神苑」について以下のように述べています。

神苑は、明治以降の神社境内整備の過程で計画的かつ造形的につくられた林苑や公園のような場所である。明治二十二年に竣工する伊勢神宮内外神苑を嚆矢とし、以後、全国の神社で神苑整備が進められるが、大正九年明治神宮内外苑の完成は、近代造園学の技術的水準を高め、それを担う技術者を全国に輩出した点において、全国の神社境内に与えた影響は大きい

中嶋氏の評価に対し、河村氏は明治神宮内苑・外苑が境内地設計の画期・転換点になったとさらに高い評価を与えています。その理由が「分割」(ゾーニング)の導入です。

この「ゾーニング」というのは、境内をいくつかの領域にわけて設計・管理することです。そして神社の場合は、境内に近いほど神聖になるように設計するのが基本であり、極端な例をあげると本殿から離れた場所にトイレを置くのも「ゾーニング」です。

河村氏は明治神宮ではじめて本格的に導入された神社における「ゾーニング」が、内務省に認められて、その後の境内地設計の基本になったと史料を発掘しつつ論証しています。内務省時代と比較して戦後は境内整備に関して神社任せの面が強くなりましたが、神社本庁へも内務省や神祇院の技師だった角南隆氏を通じて基本的な考え方は継承されているといっていいでしょう。この角南隆氏が設立したのが神社本庁の建物内にある日本建築工芸設計事務所です。

では「ゾーニング」の観点から外苑とは何かを考えていきましょう。

外苑とは何か

外苑は内苑と対になる言葉です。そして明治神宮造営に携わった本多静六、上原敬二、本郷高徳らは内苑は「神鎮まります杜」として設計し、外苑はいわゆる公園として管理すべきだと述べています。内苑と外苑では設計コンセプトも管理方法もまったく異なると設計者たちが明言している訳です。「鎮守の杜だから」という論理は内苑には当てはまりますが(ただし適切な施業をしろと設計者は言っている)、もともと公園的に設計した外苑に「鎮守の杜だから」という論理を用いるのは的外れです。

外苑の管理は基本的には一般的な公園と同じ方法でよいとしつつも、あくまで神社境内の一部、神様のための空間であることを忘れるべきではないということを技師たちは口をそろえて指摘しています。この辺は設計者の美学の範疇に入るので、なかなか言語化が難しいのですが、人が立ち入ったときに公園は親しみを感じ、外苑は神聖さを感じるという決定的な違いがなくてはならないというのが外苑の基本コンセプトです。

つまり外苑とは「公園のように設計されているが、一般の公園とは異なり、神様のためというコンセプトで設計・管理される境内の一部」(=神苑)だといえます。

最高の公園であり境内

外苑は公園ではなく、境内の一部、神苑である。これは外苑の管理を考える上で最も重要視する点でしょう。

日本の公園制度は明治6年太政官布達によってはじまりましたが、当初の公園は名所旧跡をそのまま公園としただけで、西洋の公園を知る人からは「こんなのは公園とは呼べない」と批判も受けました。しかし、この公園制度によって社寺周辺の文化財や景観などが近代化から守られたことも事実です。そして明治36(1903)年、本邦初の本格的な西洋風公園として登場したのが日比谷公園です。明治時代は日本に公園が誕生し、急速に発展していった時代なのです。

そうした歴史を受けて、当時の最高の技術者を結集して明治天皇昭憲皇太后聖徳を記念するために、神社境内の神聖な雰囲気を保った公園的空間として創出されたのが外苑です。明治神宮創建までの「神苑」のイメージを塗り替える真の「神苑」を創出したという意気込みが上原敬二や本郷高徳といった技師の言説からは読み取れます。

しかし、日本の公園の水準は大正時代から大きく向上しました。だったら現代日本の技術の粋を集めた最高の神苑を再び明治天皇に奉献しよう。老朽化したまま放置できない。そう思うのが崇敬者として自然のことであり、また最高のものを捧げようと奮闘した創建当時の人々の想いを継承することでもあります。外苑再開発にはそうした信仰的大義があります。そして再開発は「我が国の造園技術はここまで進歩しました。その成果をみそなわし、我が国を引き続きお守り下さい」という最新技術の奉納でもあります。

外苑は過去に栄えた宗教の遺跡ではありません。明治神宮という現役の神社の境内地の一部、神苑なのです。だから時代とともに進化し続ける。それは神道の精神にも、創建の趣旨にも反するものでもありません。