神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

『「戦前の」正体 愛国と神話の日本近現代史』読後評

「戦前日本」と神話

今回は講談社現代新書から出版された辻田真佐憲(つじた・まさのり)氏の著書について研究者として気になった点を述べたいと思います。

辻田氏は1984年生まれの評論家、近現代史研究者(新書の著者紹介に基づく)です。

本書のあらすじは、下記引用に端的に示されるように、神武天皇はほぼ忘れ去られた存在であったが、大日本帝国に正統性をもたせるためのストーリーとして復権されたものというものです。

明治の指導者たちは、神話を一種のネタとわきまえたうえで、迅速な近代化・国民化を達成するために、あえてそれを国家の基礎に据えて、国民的動員の装置として機能させようとした。(269p)

【図書情報】

辻田真佐憲(2023).『「戦前の」正体 愛国と神話の日本近現代史』.講談社.

『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』(辻田 真佐憲):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

忘れられていた?

重要度ではなく、ページ順に気になった箇所を指摘していきたいと思います。

ところが、その主人公である神武天皇は、信じがたいことに、幕末まで必ずしも重んじられていなかった。忘れられた存在だったと表現する研究者までいる(23P)

神武天皇が忘れられていたという主張ですが、まず中世の代表的史論である『愚管抄』と『神皇正統記』は神武天皇からはじまっています。少なくとも慈円北畠親房も忘れてはいませんでしたし、その読者も同様でしょう。

また神武天皇陵がどこかわからなくなったということが忘れられていた根拠として挙げられていますが、神武天皇陵だけが所在不明になった訳ではありません。朝廷の勢力が衰えて律令体制が崩れ、祭祀が行われなくなり、戦乱によって文書も散逸し、結果として多くの御陵や式内社がわからなくなりました。神武天皇陵だけが忘れられた訳ではないのです。

皇運の解釈

辻田氏は教育勅語の「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の解釈について以下のように述べます。

天地とともにきわまりない、皇室の運命を助けたてまつれー。結局、孝行も友愛も、夫婦の和も朋友の信も、たどりつくところは国体の擁護なのだ。皇室の運命を抜きにして、孝行や友愛を論じても意味がない。国体あってこその孝行であり、友愛である。あらためて強調すれば、それが教育勅語の世界観であった(82p)

82pで「皇運」を「皇室の運命」と現代語訳していますが、ここは「皇室」と解釈するのか、「皇国」と解釈するのかで意味がかわってきます。たしかに「扶翼」という動詞の対象は普通は天皇陛下一人を想定しますので、教育勅語のこの部分を機械的に現代語訳すれば、国民は徳目を修めて皇室の運命のために尽くせという意味になります。

しかしながら、教育勅語の最後は「朕爾臣民と倶に拳拳服庸して咸其の徳を一にせんことを庶幾ふ」と結んでいます。天皇陛下御自身が「自分も国民と一緒に徳目を守る」と述べているのです。さらに戦前の政府は「一大家族国家」(113P)を唱えていた訳ですから、皇室と国民は家族のような一体不離にあるというのが国家としての基本姿勢でした。そうなると「皇運」は「皇室の運命」ではなく、「皇室と国民の運命」すなわち「皇国の運命」と解釈する方が妥当と思います。

辻田氏が85Pで引用する戦前の文部省の「全文通釈」でも「義勇公に奉じ」の「公」を「皇室国家」と訳しています。

以上から辻田氏の教育勅語の現代語訳には疑問が残ります。少なくとも「皇運」は「皇室」であるか「皇国」と解釈すべきであるか、戦前期の一般的な解釈や理解を丹念に調べる必要があるでしょう。

偶然ならんや

辻田氏は89Pにおいて、皇位簒奪の危機、島流し、暗殺などの歴史があったにもかかわらず、会沢正志斎はその歴史を無視して『新論』で人々が皇室を慕っているから万世一系で続いて来たと論理展開していると指摘しています。

しかし、辻田氏の述べる「危機」とは皇族間の争いや有力豪族が自身にとって有利な皇族を皇位につかせる陰謀などであるのに対し、会沢が「未だ嘗て一人も敢へて天位を覬覦するものあらず」と述べているのは易姓革命がなかったという意味です。易姓革命とは皇族ではない者(例えば武家)が朝廷をつぶして自らが新しい天皇になることです。そして、皇族でない者が皇位についた例はありません。

会沢は「覬覦」という身分不相応の非望を意味する言葉をわざわざ使用しています。この一語をよくよく吟味すれば、会沢の言いたいことが易姓革命であることがわかります。

会沢は皇位をめぐる争いがあった歴史を無視しているのではなく、そうした危機があっても皇族に成り代わろうとする一族が現れなかったことを言っているのです。

伊勢神宮の地位

伊勢神宮内宮の地位も、近代以降に強化されたものなのである(江戸時代までは、豊受大神を祀る外宮の存在感がより大きかった)94P

天照大神豊受大神の信仰上の存在感と内宮・外宮の勢力は別問題です。外宮の勢力が強かったのは、内宮の荒木田氏より外宮の渡会氏の方が盛んに布教(教化)したからです。

天照大神が中世から近世にかけて大きな存在感をもっていたことは、中世日本紀において天照大神は重要な役割を果たしていること、神仏習合思想においても大日如来と同一視されたことなどから明らかです。

日本書紀』一書

会沢も、それに影響を受けた教育勅語なども、『日本書紀』のサブテキストにしか出てこない神勅をかなり強引に強調して利用しているということだ(pp.94-95)

辻田氏は天壌無窮の神勅は『日本書紀』の一書(サブテキスト)に過ぎず、会沢が引用するのは強引だと評価しています。しかし、天壌無窮の神勅は『神皇正統記』でも重要視されていますし、吉田神道をはじめ神道思想では一貫して重要視されてきました。いきなり会沢が天壌無窮の神勅を引用したのではありません。

本書は幕末から終戦までではなく、『日本書紀』編纂から現代までを熟知しておかねば書けないテーマです。辻田氏の論には「天壌無窮の神勅」の幕末までの歴史が抜け落ちています。

神話への疑義

国体の根拠づけとなっていた神話への疑義も許されなかった(111P)

このように断言するには皇国史観からの逸脱を認めない勢力への論及や分析が少ないと思います。

例えば、記紀神話を批判的に研究した早稲田大学教授の津田左右吉が発禁処分を受けた際の蓑田胸喜の行動は事態の趨勢に大きな影響を与えました。そのような神話への疑義を呈した人への批判・弾劾を主導した人物の思想と行動を丹念に分析せずに、あたかも当時の国民的風潮であったかのように論じるのは妥当性に欠くと思います。

靖國神社に皇族が祀られないのはなぜか?

辻田氏はこの問題について以下の様に述べます。

いかに英霊(このことばは日露戦争を契機に定着した)とはいえ、靖国の祭神はもともとただの一臣民。生まれながらの皇族や神々にはかなわないというわけだった(pp.149-150.)

この問題について、まず北白川宮能久親王マラリア北白川宮永久王は演習中の事故が死因です。いずれも直接の戦死ではなく、必ずしも合祀されるとは限らない死因です。

次に天皇陛下大元帥であり、皇族の軍務も高貴な義務です。ここでは将兵を死地に赴かせる指揮官の在り方を考えなければいけません。当時の指揮官の振舞いの例として乃木希典を見ますと、乃木は日露戦争で二人の息子が亡くなったことを妻に「名誉の戦死を喜べ」と電報を打ったと伝えられています。一方で他の将兵の死に対しては「陛下の赤子を死なせてしまった」と奏上するなど自責の念を持ち続けました。このように指揮官というものは身内よりも他人の戦死を重く扱うものです。したがって皇族を靖國神社に合祀すべきという上奏があっても天皇陛下は首肯されなかったと推測します。戦後、親王を祀っていた台湾の神社がなくなり、人々が嘆願したことを受けて、ようやく合祀の裁可が下ったと考えるべきでしょう。

別格官幣社は功臣を祀る神社に付与される社格ですから、社格の問題から合祀しなかったという過去の靖國神社の説明は理論的には間違ってはいませんが、それは方便を含むものと私は推察します。

東照宮

そのいっぽうで、徳川家康を祀る日光の東照宮別格官幣社とされた。これは、中世キャンセルの一環だった。江戸時代は神君として尊崇されたいた家康もしょせん一臣下にすぎないというデモンストレーションである(153P)

別格官幣社に列格させれば、大日本帝国徳川家康を功臣として追認したことになります。別格官幣社とは憧れの存在であり、「うちも別格官幣社にしてほしい」といった類の嘆願がありました。別格官幣社に列格させることは東照宮の評価を上げることになっても下げることにはなりません。

もし「神君家康はしょせん一臣下にすぎない」と民衆にアピールしたいのであれば、県社以下にしておけばいいのです。わざわざ別格官幣社に列格させる必要はありません。ちなみに日光だけではなく、久能山東照宮も県社から別格官幣社に昇格しています。

神道行政

その後の神道行政もけっして一貫性をもっていなかったからだ(162p)

戦前の行政において「神道」といえば天理教黒住教などの教派神道を指し、教派神道は仏教やキリスト教と同じ宗教行政として扱われました。これに対し、「神社神道」は単に「神社」と呼び、それを扱うのは神社行政と呼びました。したがって、戦前の行政用語も「神社行政」、戦後の学術用語としても「神社行政」とするのが一般的です。

広義と狭義の国家神道

辻田氏は「国家神道」をめぐる広義と狭義の議論について「政治的な意図が見え隠れする」と評しています。

この評価は両者の議論の争点を誤認していると思います。両者の争点は「国家神道」というものを解明する上で研究対象とする範囲の差異であり、これを「右派vs左派」や「歴史修正主義vs実証主義」、「物語vs実証主義」ととらえることは、「学説上の対立」の本質・争点を見誤っていると言わざるを得ません。この広義・狭義については新田均氏が研究史を精緻にまとめています。

付言するのであれば、冷静な学術研究としての公共的な議論の場を構築して来た「国家神道」研究者の積み重ねを、辻田氏の「実証なき物語は妄想、物語なき実証は空虚」という一節は無視したものだと言えます。

最後に本書において辻田氏が提示した「物語=仮説」は、本ブログで指摘した点により再考する必要があるものと私は思います。ストーリー性や大枠は人を惹きつけます。しかし、その物語(=仮説)が事実に即しているかどうかを確認するには地道に史料を読み込むしかありませんし、蟻の穴のような小さな錯誤によって物語が論理的に崩れることだってあります。