神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

総長選任をこじらせているのは何か?

目的は何か?

神社本庁統理という最高権威を擁しながら「田中恆清に社会的制裁をして、新しいリーダーのもとで再出発しよう」という目的を達成できないのは次の2つの理由からです。

  1. 目的の一部に無理がある
  2. 手段に無理がある

今回はこの点について整理したいと思います。

目的の一部に無理がある

「田中恆清に社会的制裁をして、新しいリーダーのもとで再出発しよう」という目的は前半と後半にわけることができます。

  • 田中恆清に社会的制裁をする(目的1)
  • 新しい神社本庁のリーダーのもと再出発する(目的2)

このうち無理があるのは目的1の方です。無罪の人を罰することはできませんので、社会的制裁を下すためには田中恆清氏が罪人であることを証明する必要があります。しかしながら背任を立証することはできませんでした。これでは田中恆清氏を罰することはできません。

背任を立証できなかった人を裁くのは無理ですし、その必要もありません。だから令和4年の役員選挙の前に統理が評議員会などの公的な場で田中氏の名誉を回復させた上で、「そろそろ勇退して次の人に総長の座を譲りなさい」と諭していれば、田中氏は引退していたでしょうし、もし本人が続投を希望しても支持は集まらなかったでしょう。つまり目的1を捨てて、目的2だけを実現するのは簡単なのです。

どうしても田中氏に社会的制裁を下したいのであれば背任の立証をするしかありません。しかしながら田中恆清氏を悪の権力者だと思い込んで、みなで正義の鉄槌を下してやろうと盛り上がっていた人々の一部はキャンセル運動を止めることができず、「真実相当性」によって田中氏の有罪が認定されたのだという無理な解釈にすがったり、総長交代を実現することで目的1を達成しようとしました。キャンセルカルチャーの暴走と評してもいいでしょう。社会的制裁を無理に下そうとすれば、相手が抵抗するのは当然です。ちなみに疑惑をかけられたら辞任すべきと主張した人もいましたが、そのような冤罪を助長するような発想は社会正義に反する上、スサノオ武内宿禰の事績から考えれば冤罪と戦うことこそ「神習う」ことですから神道精神にも反します。

このように目的1に無理がありながら、目的1と2をセットで実現させようとしてすればこじれるのは当たり前です。

けじめがない

最初は背任容疑を声高に糾弾していたのに、いつのまにか不透明な運営や混乱の責任で辞任しろとシフトチェンジしている人も見られますが、それってどうなんでしょうか?

例えば、クラスで盗難が発覚し、担任教師は普段から素行の悪いA君を犯人だと追及したが、B君が犯人だとわかったとしましょう。無実の人を追求したのですから、教師はA君に「疑って悪かった」と謝るべきです。もしこの時に生徒に謝罪するのは教師としてのメンツにかかわるからと「普段の素行が悪いのが原因だ」と謝罪をしなかったらどうでしょうか?教師として相応しい行為ではありませんよね。

だから背任容疑を糾弾していたのに、辞任を迫る理由を不透明な運営や混乱の責任にシフトチェンジする前にけじめとして謝罪をすべきだと思うのですが、ネットなどを見てもそのような形跡は見られません。直接、田中氏に謝罪した人もいるかもしれませんが、未だに背任がなかったことを認めることもせず、けじめもつけず、ただ追求し易い方へシフトチェンジした人が多いように見受けられます。この点も支持を集められない理由の1つでしょう。

手段に無理がある

神社本庁の総長は役員会の多数の支持を得て、統理から指名されることです。役員会の多数が支持しないのに、統理が総長を指名した前例はありません。「議を経て」が「議決」を意味するかは裁判の最中ですが、過半数以上の理事(責任役員)の支持を集めた上で統理の指名を受けて総長に就任することが正攻法であることは議論の余地はありません。

令和4年の改選時の役員会で田中恆清氏が9対6で選挙を制しました。ここで田中氏に勝っていれば問題がなかったのです。選挙に負けたのに、前例のない統理の指名で逆転しようとするのには無理があります。

花菖蒲ノ會等は「統理の指名権」を主張しますが、それを明文化した規程も前例もありません。また仮に「統理の指名権」が存在するとすれば、「統理の指名責任」も発生します。役員会の議決に拘束されずに総長を指名するのですから、総長を指名した責任は統理個人に及ぶのが道理です。

令和元年度から3年度にいたる田中恆清氏の振る舞いが総長に相応しくないものであり、それを理由に辞任・就任辞退を迫るのであれば田中氏を指名した統理自身も「指名責任」として引責辞任すべきですし、田中氏を総長に指名したのは誤った判断だったと主張するのであれば統理は公的な場で自身の判断の誤りをすべての神社本庁関係者(地方の神職・総代を含め)に対し謝罪する責任も生じます。

そんなことを統理にさせてはならないと考える神社本庁関係者が多いと思いますが、だからこそ一切の責任が統理に及ばないように形式的な指名でなければならないのです。

統理様を仰ぐ

皇室を解体すべきと主張する政党と皇室護持を主張する政党が選挙で戦って、皇室を解体すべきと主張する政党が政権をとり、皇室批判を繰り返す政治家が国会で総理大臣に指名されたとしましょう。このときに天皇陛下が任命を拒否したり、国会の指名に反して皇室護持を主張する政党の政治家を任命することがあるでしょうか?

憲法学では天皇に総理大臣任命を拒否することはできないと解釈されています。そして、皇室にとって不都合な政権・総理大臣だったとしても、それが選挙によって示された民意であるならば堂々と受け入れるだろうと戦後の皇室が示されて来た足跡から推測できます。

皇室を敬慕する人々が皇室解体を主張するような政権を誕生させてはならないと考えるならば、選挙に勝つしかありません。だから神道政治連盟の活動は重要なのです。

さて花菖蒲ノ會会報3号で「統理様を仰ぐといふことは、この「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません」という主張がありました。これに対してはすでに過去のブログで「万民一君」に反すると指摘しました。さらに付け加えるならば天皇陛下は一方の陣営を支持することは決してなさりませんので、統理が一方の陣営を支持したことを「おほみこころ」として仰ぐべきではありません。

本当に仰ぐのであれば

本当に統理を敬い仰ぐのであれば矢面に立たせるような真似はしません。総大将にかついではいけないのです。統理が田中氏を糾弾したいのであれば誰かが代わりに総大将になって田中氏と戦い、負けても統理に責任が及ばないようにする。そうするべきでしょう。

芦原高穂氏も同様で、田中氏に代わる総長としてかつぐのであれば、支持者たちが評議員会と理事会で過半数が確実にとれるように選挙運動を徹底してやる。それしかありません。「選挙で負けても統理の指名権でひっくり返せばいいや」という発想は本当に神社本庁統理という役職、鷹司家、鷹司尚武氏、芦原高穂氏のことを大切に考えている人からは生まれません。大切なものに一滴の泥も付着させずに担ぎきることができるかを真剣に考えれば選挙に勝つという正攻法で勝利を収めるしかありません。もし選挙で負けたとしても代わりに全ての泥をかぶる。今の状況は鷹司統理や芦原氏だけを矢面に立たせるようなもので、どうして代わりに批判を引き受ける人が支持者からでないのか疑問です。

後世はどう評価するか

次の改選時に田中氏が理事選挙・総長選挙で敗れたとしても、当然ですがそれは田中氏が罪人であることの立証にはなりません。また田中氏が悪の権力者だったことの証明にもなりません。田中氏が来期も続投することは常識的に考えて無理だからです。

田中恆清氏は昭和19年の生まれですから令和5年で数え80歳です。そんな高齢で来期も全国各地の式典に出席しないといけない神社本庁総長を務めるのは体力的に無理があります。しかも長期政権には飽きが来る。だから田中氏を人格者で有能だと思っている評議員も「そろそろ若い人に交代してもいいんじゃないか」と考えるでしょうし、そもそも本人の健康を考えて家族が止めるかもしれません。

そうなると田中氏を断罪した記録は残りませんから、未来の神道人は「神社新報」や本ブログを読んで「アンチ田中派は罪を立証できないままに終わったのだな」と評価するでしょう。

そもそも高齢・長期政権・ネガティブキャンペーンという不利な状況を考えれば、令和4年度の評議員会・役員会で再選したという点だけで大多数の神道人が田中氏の背任を信じていないこと、彼の人望の証明になるでしょう。