神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

外苑再開発反対は正義か?

自然保護が正義とは限らない

世界には遠くの水源まで水を汲みにいかないといけない子どもがいます。パソコンの授業で本物がないから黒板にキーボードを書いて使用方法を説明する学校があります。そうした発展途上国が先進国レベルの生活をしたいからと森林を伐採して工場やインフラを整備することを、先進国のクーラーのきいた部屋に住む住民が「環境破壊はやめろ」と止める権利はあるのでしょうか?

どう考えても不公平ではあり、自分たちが自然のある地球を貪り楽しむために発展途上国の人々に不自由な生活を強いることに正義はありません。この場合は自然保護と経済格差の解消のバランスをとらないと公平ではありません。

これと同じことが外苑再開発に反対する人々に言えます。

あの山林は誰のもの

休日に都会の喧騒から離れて、家族と地方に旅行する。そこには電車や車の窓から豊かな緑が見えてくる。「やっぱり自然はいいよね」と家族と楽しい会話を交わす。そんなときにバッサリと樹木が伐採されて茶色の地面が露出した山が視界に入る。非常に残念な気持ちになる。「自然を破壊するなんてとんでもないことだ」という義憤が湧いてくる。こんな経験はないでしょうか?

でも、よく考えて下さい。あなたが豊かな緑と思った山林は誰かの所有地です。国かもしれませんし、個人かもしれない。ちなみに日本の山林のうち58%は個人の所有する私有林です。だから、あなたが見て楽しんだ山林は誰かの所有物なんです。そして山林を維持するのはタダではありません。土地所有者が固定資産税を払っている土地なんです。しかも大正時代や昭和初期は家を建築するのに材木が必要でしたから、山林を持っていれば財産になりました。しかしながら鉄筋コンクリートや安い輸入木材によって伐採費用の方が高くなって山林は負の財産でしかないというのが状況になってしまいました。だから大半の山林所有者にしてみれば、山林は収益が上がらず、固定資産税を取られるだけの土地なんです。だったら手放せよと思うかもしれませんが、収益の上がらない山村の山林なんて誰も買いません。だから山林を売りたいけど、売れない人がたくさんいる訳です。

しかも多くの山林所有者が自分の意志で山林を買った訳ではありません。先祖が田舎で農業・林業を営んでいたが、サラリーマンの方が生活が安定している、都会の学校で教育を受けさせたい、といった理由で自分たちは都市部で生活をすることにした。そうしたら両親の遺産として預金、家、敷地、田畑、山林を相続することになった。本音を言えば預金だけ相続したいが、一部だけ相続はできないので、いらない土地まで相続しないといけない。管理できない田舎の家は無人になり、田畑は荒れ、山林も放置される。土地所有者は誰も住まない土地や収益のない山林の固定資産税だけを徴収され続ける。さらに近隣住民からお前の敷地の雑草を刈ってくれ、お前の家の樹木が倒れて損害が出たから弁償しろ、という電話がくる。負の財産でしかない山林や田舎の土地に苦労している土地所有者は多いのです。氏子が減少してお祭りができないという問題をフィールドワークしていますとこの種の苦労話ばかり耳にします。

山間地に観光に行って満喫した自然は土地所有者の費用・リスク負担によって成り立っている

そんな費用とリスクを負担している人々に企業から「ここに新興住宅地・レジャー施設を建てますので売って下さい」と声がかかったら迷わずに売るでしょう。労苦から解放される訳ですから。そして始まった再開発で山林が伐採されることを「とんでもないこと」と止めさせる権利が都会に住んでいる人々にありますでしょうか?

それは「山林所有者は都会人のレジャーのために固定資産税を払い続けろ」と言ってるようなものです。格差問題というのは先進国と発展途上国の間だけのものではありません。日本国内においても都市と山間部の格差問題はありますし、山林所有者と都会からたまに観光に来て自然を謳歌するだけの人との間にも自然保護の負担の面において不平等が存在します。

勝手な言い分

山林を保護するためにはコストもリスクもかかります。「山林を破壊するな」と主張するのであれば、コストとリスクも負って下さい。山林伐採に反対運動するだけが環境保護運動ではなく、山林所有者の固定資産税を軽減するような政策を政府に要望する、募金を集めて山林を購入する、自分たちも山林維持のコストを負担する、そういった活動もできるはずです。

でもそのような活動をしている団体は聞いたことがありません。世の中に存在するのかもしれませんが、自然保護運動の主流にはなっていない。それは「自然保護」を叫ぶ人の大半が自然を保護したいが、自分たちの快適な生活は手放したくない、山林管理のコストもリスクも負担したくないと思っているからです。自分たちは負担しないで、発展途上国や山林所有者だけに負担を負わせることを正義の「自然保護」運動だと思うのは、極めて利己主義的な考え方です。そこに大義はない。

こうした利己主義的な考え方を自然保護運動から払拭し、コスト・リスクを平等に負担する自然保護が主流になっていかないと「SDGs」も失敗に終わるでしょう。

外苑再開発への反対意見

明治神宮外苑の再開発に対する反対意見で、明治神宮が負担して来たコスト・リスクについて自分たちも負うという意見を見たことがありません。外苑は明治神宮とい一宗教法人が所有し、それを公園的に開放している空間であって、税金で維持管理されているものではありません。外苑を「公共財」とか「コモンズ」だと主張する人もいますが、明治神宮はコモンズではありません。コモンズだと主張するなら、明治神宮をはじめ一部の私人がコスト・リスクを負担している状態を解消すべきでしょう。

反対運動に参加している政治家がいるのですから、国や都が明治神宮から購入して公営公園するとか、現状を維持するための公的補助をするなど負担を均等化する方法はいくらでもあるはずです。

明治神宮は「これからもみんなの外苑として開放していきたいから、古くなって危険な場所は建て直し、収益で維持費が捻出できるように改修したい」と言っているだけなのです。それに対してコスト・リスクについて歩み寄りをせずに現状維持を求めるのは、「明治神宮のお金で今まで通りの外苑を維持して、我々に使用させろ。なんか事故があったら明治神宮が責任をとれ」と言っているのと同じです。

リスクについて指摘しておきますと都心は排ガスなど樹木の生育にとって良い環境ではないので、山奥よりも若い樹齢で倒木や落枝のリスクが高まるのは自明です。そういうリスク管理の観点からも伐採はしておく必要があるでしょう。こういった問題で自然保護団体サイドの樹医が伐採の必要はないと太鼓判を押すことがありますが、だったら「もし倒木や落枝があったら診断した私が賠償責任を負います」と契約書を交わしてほしいものです。リスクを負わない保証では所有者は安心できません。

このように外苑再開発への反対意見は、所有者だけに負担を負わせる不公平なものです。