神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

神社は合議制が基本

インタビューでの回答

毎日新聞」2023年6月13日に掲載された神社本庁統理の鷹司尚武氏へのインタビューそこが聞きたい:内紛長期化の神社本庁 神社本庁統理・鷹司尚武氏 | 毎日新聞において「神社界での意見の食い違いを多数決で解決しようとするのは神社の伝統にそぐわないということでしょうか」という質問に対し、鷹司氏は争いごとはあったと思うとした上で「神様あるいはトップに一任して決めてきたのではないでしょうか」と回答しました。

今回は神社・神道と多数決について検証していきたいと思います。

神社で争いごとはあったか

まず神社で争いごとはありました。複数の家が神職のトップの座を争ったり、近隣の社寺や住民と土地の境界線や権利関係で出入りした記録は数多く残っています。

有名な例を一つ上げますと、『方丈記』を書いた鴨長明下鴨神社の社家出身で父親は神職のトップの座にいました。しかし、長明の父が逝去し、トップの座は親戚の鴨祐季に取られてしまいました。しばらくして祐季が延暦寺との権利争いで失脚したので長明は父の跡を継ぎたいと動きますが、祐季の子である祐兼に負けてしまいます。そのとき長明は約20歳でした。それからは神職よりも歌人として励むようになりました。

ところが50歳になろうとしたとき、下鴨神社の摂社である河合社の禰宜の欠員が出ました。河合社の禰宜は出世コースであり、逆転のチャンスがやってきたのです。しかも、すでに歌人として高い名声を得ていた長明を後鳥羽上皇が推挙の内意を示してくれました。これで父親はトップだったし、上皇の後援もあるから負けるはずがないと長明は喜びましたが、鴨祐兼が自身の息子こそが相応しいと強行に主張(長明は歌人として有名だが神職としての貢献度は息子の方が上である)し、負けてしまいました。これにより長明は完全に神職としての道を諦めて出家します。

こうした神職一族間の跡目争いは珍しいものではなく、戦国武将が介入することもありました。

神社はトップダウン

鴨長明下鴨神社のトップになりたかったのですが、トップになったとしても下鴨神社の絶対権力者になれた訳ではありません。

なぜならば、いくつもの一族の家があり、もし「今は私がトップの座にいるから、私の好きにやらせてもらう」なんてやれば、他の家が祭祀や神社の運営に協力しなくなりますし、今はよくても自分の子供の代に仕返しをされますので何か重要な決め事は一族で集まって合議する必要がありました。

つまり一族間のパワーバランスを常に気にする必要があったのです。そもそも「鎌倉殿の合議制」や江戸幕府の老中など、日本では「トップがいる=トップダウン」ではなく、「トップがいるけど合議制」というのが歴史的には多く見られます。

また誰がトップになるかで争わないように、一族のなかで輪番制にしてみる神社も現れましたし、一族以外の関係者や配下の神職の意向も確認する必要がありました。中世や近世の神社関係を見れば、神職が社内の意思決定のために合議や根回しにとても配慮していたことがよくわかります。

宮座と寄合

地方の村々の神社の場合、そもそも専門の神主がおらず、宮座のメンバーが輪番で頭屋神主として祭祀を執行することが多く見られました。この宮座のなかで家柄や政治的経済的背景による発言力の差があることもありましたが、一つの家に他の家が服従するということはなく、宮座の意思決定は寄合(協議)で決するのが基本です。

大きな神社よりも小さな神社の方が数が多いので、宮座的な運営の神社の方が多いことになります。そのため圧倒的大多数の神社においてその意思決定は寄合(協議・合議)で決していたことになります。

朝廷や幕府の裁定

鷹司氏の言う「トップ」が「トップの神職」という意味ではなく、朝廷・幕府・大名家のトップ(天皇陛下、将軍、大名)だとしても、そうしたトップが神社の訴訟を直接裁くことはほとんどありません。寺社奉行などの担当官を中心に家臣の合議で解決案をつくり、その決裁を仰ぐのが通例です。

戦国武将が自分の味方になりそうな社家に実権を持たせようと戦に発展することを覚悟で強引な介入することはありましたが、鴨長明後鳥羽上皇の内意を受けながら負けたように、朝廷の基本姿勢は一方に肩入れしてトップダウンで神社の人事にごり押しの介入をするのではなく、その神社内の意向を尊重するものでした。下鴨神社の河合社の禰宜人事は上皇トップダウンで決するものではなく、また上皇も神社内の多数意見を無視して自身の推す鴨長明を就任させるということはなさらなかったのです。このような西洋の絶対君主とは異なる在り方だからこそ皇室が仰がれ続けたのだと思います。

そのため鷹司氏が想定する「トップ」が朝廷や幕府などを指していたとしてもトップに一任ではなく、合議で決するのが通例です。

神話から考えても

そもそも神道でトラブルになったら合議をするのは高天原から続く伝統です。それは

天照大神が天の岩戸にお隠れになったときに天安河原八百万の神々が集まって「神議に議り」て対応を決した事績に顕著に示されています。このことは大祓詞にも記されています。

だから神話から考えても神道は合議が基本だと言えます。

合議で決しない場合

どうしても合議で決しない場合に用いられるのが、神慮を伺う方法です。その方法としては卜占、神話で登場する「ウケイ」、武内宿禰が行った双方が熱湯に手を入れてケガのない方を勝ちとする「盟神探湯」などがあります。

この「盟神探湯」は室町時代まで行われました。その当時は「湯起請」と呼ばれたようです。また熱した鉄を持たせ、落とさずに運ぶことができた方を勝ちとする「鉄火起請」(火起請)というより過激なものも生まれました。これは足利義教がよく用いたと記録があり、織田信長の時代でも行われていました。

当然、双方が大けがをするので、当時ですらよほどのことがないかぎりは話し合いで解決するのが基本でした。神様に一任するというのは命懸けだったのです。もちろん、近代以降、このような方法は禁止されています。また神祇を崇敬する立場からは「人間同士の諍いに神様を巻き込むのは畏れ多い」と考えるべきであり、神慮とは容易に伺うものではありません。

また戦国時代などの過激な風潮に合わせて過激な方法が採用されただけで、亀卜や参籠起請など誰も傷つかないような穏健な方法もあります。

神道の基本は合議

このように神話や歴史を見ると、大祓詞に「神議りに議り」とあるように神道では「議」を重んじますし、宮座など神社運営は寄合(合議)が基本です。むしろ合議や「多数決」を軽んじるのは神道の精神に反すると言っていいでしょう。

今回の代表役員の地位確認訴訟については、インタビューにおいて統理が宗教的な問題ではなく、世俗的な問題と断言していますので、裁判所の判断に従うことで決着するものと思います(そうでなければ主張が矛盾することになります)。なので教学的な議論になることもないですし、神慮を伺うような展開にもならないと思います。