神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

本庁問題の本質

直接対決を避ける神職

とある評議員回顧録に、理事会で事務総長の意見に満場一致で賛成しておきながら、裏で撤回と辞任するように事務総長を説得してほしいと頼まれたことがあるという述懐があります。神職にはこのように表で賛同しながら裏で根回しすることをよしとする独自の文化があるとその評議員は指摘しています。

戦前期においても、全国神職会の通知に対する疑義を正規の異議申し立てではなく、一般の新聞に投稿して、それに対して激怒した幹事が「神職会として異議申し立てや質問を受け付けているのだから文句があるなら直接言ってこい」という趣旨の反論を雑誌に掲載するという事件も確認できます。

当然のことながら全ての神職がストレートな議論を避ける訳ではありませんが、他の職業と比較して神社界は横のつながりが強く、さらに子どもも同じ職業になる可能性が高いため、同業者と揉め事を避けたいと思う傾向はあるでしょう。

そうした環境のなかで、会議の場で直接対決せず、会議以外の場で第三者をつかって説得したり、世論を誘導したりすることで自分の意見を通そうとする術を「丸くおさめる」とか「交渉上手」とする風潮が生まれるのは不思議なことではありません。

統理の中立性

総長選出について田中恆清氏の再選を防ぎたいのであれば、過半数の理事の支持を集めて統理から指名を受けるのが王道的な勝ち方です。解釈についてもめている「統理指名」が形式的なものであれ、実施的なものであれ、過半数が支持した人物を統理が指名するということが望ましいことは論を俟ちません。

ところで、内閣総理大臣を任命するのは天皇陛下です。しかし、実質的に指名するのは国会で任命は形式的なものです。国会が指名した政治家が皇室や神社を批判していようが、任命拒否はできないというのが憲法のルールです。しかし、形式的なものだからこそ、総理大臣・内閣がどんな不祥事を起こそうとも天皇陛下が責任追及されることはありません。また形式的だからと言って、天皇陛下より総理大臣や国会の方が偉いと考える人はいません。

同様のことが統理により総長指名にも言えます。総長の行動について統理が任命責任を追及されないのは形式的な指名だからであり、形式的な指名だからといって統理より総長・理事会の方が偉いということにはならない。このように考えるのが一般的な法理です。

統理は神聖であり、神社本庁の運営に関して責任を追及されるようなことはあってはならないと本心から思うのであれば、どっちが理事の過半数の支持を集めるかという世俗的な「総長選挙」に統理を巻き込むべきではないでしょう。少なくとも「統理VS〇〇」と社会に認識されるような状況は絶対に避けなければならないはずです。

神社界に意見の対立があっても、すべての神道人が奉戴するのが神社本庁憲章ならびに神社本庁庁規に規定された「統理」のイメージであり、そのためには中立性が保たれなくてはなりません。

場外乱闘ではなく理事会で議論を尽くすべき

過去の総長選出でも水面下で激しい闘争があったことは「神社新報」の行間や関係者の回顧録を読めばわかります。

ただ昔の神社本庁役員には、神社界内部で激しい意見の対立があっても世間には見せないという美学があったように思われます。実際に一般の雑誌や新聞に対立が掲載されて社会問題になるようなことは寡聞にして聞いたことがありません。

また宮川宗徳、葦津珍彦など全国の神社を統合した指導者には輝かしい業績への称賛だけではなく、辛辣な批判もつきものです。言い換えれば批判をものとせず前進するような人物でなければ神道人のリーダーになることはできません。宮川宗徳事務総長は老練な行政官らしく慎重で入念な根回しもしましたが、同時に戦うべきときは相手がGHQでも真っ向勝負を忌避しない胆力の人だったからこそ終戦直後の難しい時代に多くの神道人の支持を得ることができました。

当事者同士の直接討論を基本としていれば、世間を巻き込むことはありません。しかし、すでに社会にトラブルとして認知されてしまっています。このような事態になった最大の原因は、本来であれば役員同士の直接討論で決着すべき問題がインターネットを通じて拡散され、それぞれの支持者が参戦してしまって場外乱闘になってしまったからと私は分析しています。

この場外乱闘は神社や宗教そのものの社会的信用を損ねるだけであり、理事には直接討論で決着をつける気概をもって役員会に臨んでもらい、ネット世論や仲介者による説得ではなく、役員会の熟議により解決することを望みます。