神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

奥ゆかしさの大罪

表面上は遠慮する

事務総長に辞任を勧めた評議員回顧録のなかに、次のような興味深いエピソードも語られています。ある人物は次期事務総長と推す声もあり、自身も事務総長への意欲があったにもかかわらず、現任の事務総長に対しては「自分は高齢で重責を担えない」、「奉仕神社が忙しくてお引き受けはできない」などと言って表面上は辞退していたそうです。

このように神職のなかには、運よくポストがあいて、「〇〇さん、どうぞお座りください」と言ってくれる人がいて、それに対し「私なんて・・でも、みなさんが言うなら」とポストにつく。そういう流れを美しい出処進退と考える傾向が見られます。

先の評議員会で田中恆清氏が総長になった理由を問われて「推してくれる人がいるから」と答えたのも田中氏に総長としてのビジョンがないからではなく、それをストレートに主張するのが美でないとする風潮が神社界にあると考えると納得できます。実際に過去の総長や神道人を見ても「私が総長になったら国家や神社のために〇〇をなしとげる」なんて公約を大々的に公言している人はいません。

遠慮することがいいとは限らない

三顧の礼」のように人から推されてというのは、はたから見ると美しいです。しかし、過去の事務総長選出がもめたのは、奥ゆかしさを演出する神職の悪癖が原因です。なぜならばポストが運よく空くとはかぎりません。そうすると自分は無欲を装いながら、自分を推す派閥をつくり、水面下で駆け引きをして競争相手に辞退してもらうしかないからです。だから出身大学や地区による派閥ができて、互いに駆け引きをすることになりやすい。過去の事務総長、総長選挙において票の取りまとめの選挙工作があったことは前に指摘した通りです。

このような対立を生む原因となるような「奥ゆかしさ」など捨ててしまって、互いに「自分が総長になったら〇〇をしたい」とビジョンとそれを実現するためのプランを討論して、それを評議員会、役員会(理事会)で評価してもらう「恨みっこなし」の選挙で決着する風潮をつくった方が神社神道の発展につながると私は考えます。

問題のない時代ならば、人に推されて皆にかつがれてというリーダーでもいいのかもしれません。しかし、今は産業構造、価値観など様々なものが急速に変化しています。神社界の結束にもゆらぎが生じています。終戦直後に匹敵するような神社神道にとって危機的な状況だといっていいでしょう。そんなときに必要なのは「どうぞ、どうぞ」を待つ人物ではなく、「我こそは」と名乗りを上げ、すべての神道人の先頭に立って苦難に立ち向かっていく戦闘者の精神を持つリーダーだと私は考えます。