神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

「統理を仰ぐ=おほみこころを仰ぐ」なのか?

統理様を仰ぐということ

統理様は御聴許を受けて大神宮にご就任になられてをります。「おほみこころ」のまにまに神宮祭祀をおつとめになられました。統理様を仰ぐといふことは、この「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません

『花菖蒲ノ會』会報第3号|自浄.jp

 

この理論は以下の点で問題があります。

①万機公論に反する

「おほみこころ=大御心」は「天皇の心」を意味します。

「統理を仰ぐ=大御心を仰ぐ」のであれば、「統理を仰がない=大御心を仰がない」ということになり、異論や反論ができなくなります。

このような天皇の権威を巧みに利用して「異論封じ」を行ったのが戦前の軍部であり、上記の表現はオープンな議論を妨げます。

②勅任の役職は他にもある

天皇陛下の指名や御聴許によって決まる役職は神宮大宮司だけではありません。例えば、戦前期の総理大臣も「大命降下」で決まりました。

花菖蒲ノ会の理論でいけば、「大命降下で決まった内閣総理大臣を仰ぐことは、「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません」ということになります。

しかし、戦前期に「内閣総理大臣を仰ぐ=大御心を仰ぐ」なんて考える人はいませんでした。したがって「大御心で任命された職を全うした人を仰ぐことは大御心を仰ぐのと同じだ」という文化は存在しません。

③皇室に対する敬意の問題

天皇陛下に対する敬意として、「大御心」など天皇に対してのみ用いる表現が存在します。この表現を他者に対して用いたり、あたかもそのようであるかのように表現するのは皇室に対する礼に欠けるという心配があります。

④御聴許を経て大宮司に就任したが、神社本庁統理はそうではない

この点は明らかに論理の飛躍です。なお「花菖蒲ノ会」の名称の由来として花言葉が「よい知らせ(信頼できる情報)」と記載していますが、「よい知らせ」は吉報のことであって正確な情報というのは拡大解釈です。

 

執筆者にはそのような意図はないのかもしれませんが、「統理様を仰ぐといふことは、この「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません」という一文は、オープンな議論を妨げるものであり、朝廷の慣習にも反し、何より尊皇の観点から問題があります。この辺は注意すべきでしょう。

 

統理の決断と承詔必謹

所功氏は「神社人への切望ー「承詔必謹」の再認識」(『花菖蒲ノ會』会報第2号|自浄.jp)において「承詔必謹」の教訓を応用し統理の決断に従うべきという論を展開しているが、以下の点で問題がある。

①「詔」は天皇陛下以外に用いるべきではない

そもそも「詔勅」とは天皇の「お言葉」に対してのみ用いることができる表現ですので、統理の決断を「詔」と評するのは皇室に対する礼の観点から不適切です。

所氏は皇室研究の泰斗ですから当然この点は承知し、「承詔必謹」を引き合いに出すのは不穏当と断りを入れています。しかしながら全体的に「統理の決断≒詔」と読み取れる論理構成となっており、読者に誤解を与えかねない文章です。

詔勅には手続きがある

天皇陛下の「お言葉」が全て「詔勅」だと思っている人も多いですが、詔勅とは決められた手続きに基づき「国政の最高指導部の共通意志」として発せられるものであって、「天皇の恣意」ではありません。

第二には、 それが単なる天皇の恣意に基づくものではなく、 国政の最高指導部の共通意志としてだされている点である。 つまり詔勅をだすに当って、 管見の限りでは、 通常、 首相と内大臣宮内大臣が相談しっつ、 内閣書記官など主務官庁担当者と宮内省御用掛とが協力し、 文案を作成し、 内閣で内定するという手順がふまれている。 そして閣内で反対がある場合は、 詔勅実の訂正が行なわれる。 一九三三年、 国際連盟脱退の詔書が、 閣議での陸相の反対で「上下其の序に従ひ」という句を削除した事実は、 詔勅の共通意志の発露としての性格を物語っていよう。 かくて内定された詔勅案は、 原敬によれば「拝謁の際過日内奏し置きたる御批准の際における詔勅案を御前に於て一応朗読して勅裁を得」ることになる。 つまり詔勅をだすに当っては、 首相が、 天皇側近と協議し、 天皇の意向をうけ、 それに基づき内閣で詔勅案を内定し、 内奏の際、 天皇が裁断するという手続がふまれるのであった。

【出典】須崎慎一(1981).「近代天皇制の変容―近代詔勅考-」.『一橋論叢』85巻,2号.pp.74.

詔勅の手続きを統理による総長指名に応用するのであれば、むしろ理事の多数意見(役員会)は尊重されるべきでしょう。

須崎論文に記されるように詔勅は「最高指導部の共通意志」として発せられるものですから、それを総長人事に応用するのであれば神社本庁の「最高指導部=理事」の多数意見はないがしろにできないという理屈になります。

議を重んじるのが皇室の伝統であり、だからこそ十七条憲法の最初は「和」を掲げ、明治維新の際の五箇条の御誓文も「万機勅に従うべし」ではなく、「万機公論に決すべし」なのです。

 

おわりに

私は誰が総長になるかに興味はありませんし、花菖蒲ノ会の活動を否定はしません。

しかしながら、上述のように花菖蒲ノ会の論理には問題があり、その点については神道研究者の立場から指摘しておきたいと思います。