神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

週刊ダイヤモンド2023年10月7・14日合併特大号読後評②

相関図から読み解く

週刊ダイヤモンド2023年10月7・14日合併特大号(44-45p)の相関図を見て「悪人どもがこのようにつながっているのか」と納得してしまう人は情報化社会でカモにされてしまいやすい人なので注意した方がいいですよ。そもそも相関図というのは作成者の主観が強く反映されるものであるから、相関図を事実として受け入れるのではなく、「著者はこのように考えているのだな」という参考程度に留めるが賢明です。

しかもこの相関図にはツッコミどころが多い。いくつか指摘しましょう。

①義甥

相関図だと三笠智春氏を打田文博氏の「義甥」と書いていますが、これは厳密に言うと間違いです。「義甥」というのは打田氏の奥さんの兄弟姉妹の男子を意味します。しかしながら三笠氏は打田氏の奥さんの兄弟姉妹の娘と結婚したのであって、打田氏の奥さんとは血縁関係がありません。打田氏から見て三笠氏は「妻の兄弟姉妹の娘と結婚した男性」です。打田氏の奥さんから見て三笠氏は「甥」ではなく、「姪婿」(めいむこ)です。だから打田氏から見て三笠氏は「義理の姪の旦那」または「妻にとっての姪婿」になります。無理やり漢字で表現すると「義姪婿」になるのですが、そんな言葉は日常的に見たことがありません。表現する言葉がないくらい遠い親戚ということです。

したがって相関図45pの「義甥」は間違いなのですが、作成者が「義理の姪の配偶者」を「義甥」と勘違いしているのであれば日本語の勉強不足ですし、本当に義理の甥だと認識しているのであれば取材不足ですし、事実を知っていながら少しでも打田氏との関係性が強い印象を読者に与えようとして「義甥」と書いたならそれは印象操作です。いずれにせよ不適切な表現であることはいうまでもありません。

②元主従

この表を見ると「元主従」という表現が多数みられます。この言葉が「元上司・元部下の関係」だという意味であれば、退職した職員も含め神社本庁の全職員は田中恆清氏と「主従」の関係にあり、裁判で争った稲氏と瀬尾氏も田中氏と「主従」の関係になります。それはおかしいですよね。

このように元上司部下でも関係が悪いという可能性もある訳です。しかし、作成者は「元主従」という関係をわざわざ書いた。これは「Aさんを重用したのは田中恆清氏であり、2人は良好な関係にある」という内部情報を入手しているからだと考えるしかありません。そして、そうした情報は神社本庁内部の人間にしかわからないことです。つまり神社本庁役職員の誰かがこの相関図の作成に協力していると考えるのが自然です。しかし、その役職員は中立公平な立場の方なのでしょうか?

③関係性の強調

相関図では安倍元首相と打田氏との関係について、ツーショット写真を紹介し、「じっこん」と書かれています。ただ自分の政党の支持団体のトップに対してファンサービスで写真撮影に応じるのは政治家として当たり前のことであり、正直言ってその程度で「じっこん」というのは強調しすぎです。地元の遊説のときに「応援してます~写真撮ってください」と言えば大抵応じてもらえます。最近では写真を悪用する人もいるので、ツーショット写真を撮られることを警戒するベテランの秘書もいますが、支持団体の人間とか自民党員などの身元がはっきりしていれば拒否されることはまずありません。このように特に親しいとは言えないような関係を、さも協力関係にあるように強調して書いてあるような箇所があります。

情報提供者の重要性

一連の報道で神社本庁関係者が取材に応じていますので、人間関係などの内部の情報を外部に提供している役職員がいることは間違いないでしょう。一連の報道から情報提供者の人物像を想像するに、田中氏や打田氏によって一部の職員が依怙贔屓され、実力や実績のある(と情報提供者本人が思っている)人材が不当に不遇な待遇を強いられており、田中氏と打田氏を本庁から排斥することで正しい人事評価がされて組織が正常化すると考えている人物ではないかなと想像しています。

実際の情報提供者がどのような人物かはわかりませんが、この相関図を見て何を思うのでしょうか?田中氏と打田氏の2人を神社本庁から排斥することが仮に正義だったとしても、尊皇の心があるなら醜聞報道のなかに上皇陛下や宮内庁の名が記されるのは避けるべきですし、鷹司家の格式を尊ぶのであればトラブルに巻き込まないようにすべきですし、地方の神社や神職のことを想うのであれば神社本庁の社会的信頼の失墜を避けたいと思うはずです。情報提供者のやり方は、船長が気に入らないからといって船を沈めるようなものです。目的の是非は別として、手段は神社神道にとって良い結果をもたらしません。

このように情報提供者を含めて本庁内部の職員というのは名前こそ報道されませんが重要なファクターです。それを踏まえて、本庁内部のアンチ田中・打田派が鷹司統理と芦原氏を矢面に立たせて田中・打田おろしを実現しようとしているという可能性についても検証していくべきでしょう。本庁問題の原因は一つではなく、いろいろな要因がからみあって発生したのでしょうが、その一つに神社本庁内の出世争いや仲たがいが過熱して、OBや役員を巻き込んでの総長の座をめぐる争いに発展したという面もあるのではないでしょうか?

外苑再開発問題は「貧すれば鈍す」の象徴だ

たしかに日本の「コモンズ」の危機ですよ

今回は多摩大学大学院経営情報学研究科の堀内勉教授の神宮外苑・再開発問題は「貧すれば鈍す」の象徴だ なぜ欧米では「私有地だから自由」が厳禁なのか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンラインについて反論したいと思います。

「コモンズ」や「公共財」というのは簡単に言えば「みんなのもの」です。だから反対論者が「コモン」という概念をつかって言いたいことは「外苑はみんなのものだから勝手に再開発するな」ということです。でも残念ながら外苑はコモンズではありません。「みんなのもの」であるためには恩恵だけではなく、負担も共有しないといけません。では外苑の維持は誰がしていますか?

この議論で再開発反対論者が根本的に見落としているのが負担の面です。外苑は税金で維持している公園ではありません。明治神宮と言う一宗教法人の所有地であり、明治神宮が維持費を出して管理している土地の一部を善意で開放してくれているのが外苑です。

仮に外苑が「コモンズ」だったら多摩大学のキャンパスだって「コモンズ」です。多摩大学は私学ですが補助金を受けています。補助金をもらっていない明治神宮よりコモンズとしての性格は確実に強いでしょう。多摩大学で建て直しや樹木伐採をするときに学外から反対意見が出てきたら、堀内教授は「多摩大学キャンパスは多摩大学のものじゃない。コモンズなんだからみんなの意見を聞くべきだ」と学内を説得されるのでしょうか?

「コモンズ」について考えるとき「共有地の悲劇」や「フリーライダー」の問題も考えなければいけません。私は入会地や地域住民が共同管理する祠を実地調査してきましたが、負担の平等は「共有地」の現場ではかなりシビアです。一人だけ負担が軽かったり、一人だけ多く利益を得ようとしたり、一人だけ負担が多かったり、一人だけ利益が少なかったら、すぐにトラブルになるのが共有地の現場です。共有地の維持コストを負担していない人間が口出ししたら負担している人々から「あなたには口出しする資格はない」と一喝されるのが現場です。恩恵・負担の不平等が共有地を壊滅させかねない問題に発展しかねないのだから、共有地の現場に身を置いた人間は不平等に敏感にならざるを得ない。この頃「コモンズ」を論じる人々の多くが負担の不平等を軽視する傾向にあるのは現場よりも書物から得た知識だけで「コモンズ」を論じているからではなかろうかと推測する。

明治神宮をコモンズだと主張する人は明治神宮だけが外苑(内苑も)の維持にかかるコストを負担している現状についてどう考えているのでしょうか?

自分たちが維持コストを負担していないにも関わらず、負担者に一切の敬意を払わないどころか、それを「みんなのもの」だと言い張って権利を主張するのは、非常に利己的であり、自己中心的であり、「貧すれば鈍す」以外の何物でもありません。

反対派を批判する人って誰?

堀内氏は以下のように述べます。

反対派を批判する人の意見を聞くと、神宮外苑私有財産だから何をしてもいいはずだといった声が多いことに驚かされます。

これは具体的に誰の論に対する意見でしょうか?ストローマン論法的な抽象的な極論を論破することに意味はありません。

また以下のようにも述べています。

再開発反対を訴えている人たちを、単に遅れてきた共産主義者やリベラル左派が、「木を切るな」と言って情緒的に騒ぎ立てているといって非難すれば済むという単純な話ではありません

この文章から堀内教授は、反対派について「遅れてきた共産主義者やリベラル左派」という不当なレッテル貼りをされていると認識していることがわかります。しかしながら反対派に対して大手マスコミはそのような表現で批判していません。googleで「遅れてきた共産主義者」を完全一致検索しますと、一番最初に出てくるのは堀内教授の記事です。他は外苑再開発以外の問題について書き込まれた「2ちゃんねる」のコメントがヒットしました。この「遅れてきた共産主義者」というのはどこから出てきた表現なのでしょうか?疑問です。

土地所有制度が違います

堀内教授は「どの国でも、資本主義の本家本元であるイギリスでもアメリカでも、土地というのは公共的な観点から所有者が使用や処分の制限を受けるものです」と主張しますが、その前に「世界の先進国で、日本ほど土地について完全な所有権を認められている国は他にありません」とも主張しています。これは完全な自己矛盾です。

少し落ち着いて考えればわかることですが、この2つの文章は「日本の土地所有者が外国と比べて公共的な観点から使用や処分の制限を受けないのは、日本ほど土地について完全な所有権を認められている国は他にないからです」と結びつけるのが自然です。

堀内教授が例示するイギリスにおいて土地の最終的な所有権は政府にあります(イギリスの不動産関連情報 | 海外建設・不動産市場データベース | 国土交通省)。アメリカも州による差がありますが、日本とは土地所有制度が異なります(アメリカの不動産関連情報 | 海外建設・不動産市場データベース | 国土交通省 (mlit.go.jp))。議論の前提となる制度の比較をせずに、単純に「欧米はこうだ」と主張するのは強引な論理展開です。

本当に宗教法人に補助金は出せないの?

明治神宮が宗教法人であるために、国が資金支援をできないという問題もあるようですが、もし明治神宮に十分な資金がないのであれば、国や東京都が土地を借り上げて野球場やラグビー場を建てればいいだけの話です(あるいは改修という形でもいいですが)。おそらく、国や東京都にもその資金がないからこそ、民間事業者の力を借りたということなのでしょう。

この部分ですが、まず「宗教法人だから公的補助ができない」というのは誤りです。例えば、宗教法人が所有している重要文化財の修理に対して公的補助はできます。簡単に言ってしまえば、その宗教団体・宗教法人を依怙贔屓することがダメなのであって、たまたま公的補助をすべきものを宗教法人が所有している場合にそのものを保護するために公的補助を行うことは禁止されていません。すでに個人・私法人が善意で土地を開放した場合にそこに税制優遇をする制度がありますので、そこから一歩進んで外苑のように私法人が所有地を開放した場合に公的補助を受けられる制度を作ればいいだけの話です。多くの政治家が保全すべきと叫んでいながら、外苑に対して公的補助を可能とする具体的な仕組みを提案しない現状を見ますと「選挙のためのパフォーマンスなのかな」と落胆せざるをえません。

つぎに事業者側は、改修では施設を利用できない期間ができるので、その間の収入が止まり、外苑と内苑の維持費の捻出に支障が生じると説明していますので、「改修という形でもいいですが」という意見から事業者側の説明をよく読んでないことが指摘できます。

最後に公的補助もできない、東京都や国に資金がなく民間事業者の力を借りるしかないと公助のない状況を理解していながら、それでも外苑をコモンズだと言い張るのは無理です。

外苑はコモンズ?

「コモンズ」には定義があり、その定義にあてはまるものだけがコモンズです。学者が「これはコモンズだ」と言えばコモンズになる訳ではありません。だから堀内勉教授は「コモンズ」の定義を提示した上で、「外苑は〇〇という条件を満たすからコモンズだ」という証明をまずすべきです。堀内教授にかぎらず、外苑をコモンズだと主張する人はこの証明を怠っています。

私は「みんなものなら恩恵も負担も共有すべき」という小学生でもわかる単純明快な定義で、維持するための負担を共有していない外苑はコモンズではないと主張しています。

フリーライダーを称賛するようなコモンズは長続きしません。負担の不平等に気づけない浅薄なコモンズ論が横行している日本の現状に暗澹たる気持ちになります。自分たちが恩恵を受けているもののコストを負担してくれている人に敬意をもたないことこそ「貧すれば鈍す」です。

都心にとって内苑外苑の自然が重要だというのであれば、明治神宮の負担を共有する呼びかけこそすべきなのに、明治神宮に過剰な負担を負わせ続けようとするのはSDGsでも「コモンズ」を重んじる姿勢でもありません。

週刊ダイヤモンド2023年10月7・14日合併特大号読後評①

義甥だからといって

創価学会、神社、旧統一教会…連鎖没落の危機にひんする「巨大宗教」の今 | 週刊ダイヤモンドの見どころ | 週刊ダイヤモンドの「神政連会長親戚が巨額横領」(34~35p)には矛盾があります。

まず東京都神社庁で横領をしたとされるM氏は「打田会長の義理のおいという親戚系関係にあり」と書かれています。この打田会長とは神道政治連盟会長の打田文博氏のことです。その上で記事は「神政連のトップに絡む横領事件が今後、どう影響していくのか予断を許さない」と締めくくっているのですが、打田氏と横領事件がどう絡んでいるのでしょうか?

接点は打田氏がM氏と「親戚」関係にあるという点だけです。しかも打田氏とM氏の関係は「義理のおい」、義理の姪の配偶者です。つまり打田氏の奥さんの兄弟姉妹の娘(=義理の姪)が結婚した相手がM氏です。「親族」には該当しませんし、義理の姪と離婚すれば親戚関係は終わります。

冠婚葬祭において打田氏はM氏サイドではなく、義姪サイドに座ることになります。M氏と義姪の間でトラブルになれば義姪の味方につくことになります(そうしないと打田氏は奥さんand義実家との関係が悪化する)。

だから打田氏がM氏を助けるとするなら、それは義姪または奥さんの実家からの依頼に基づくことになります。しかし、M氏と義姪との関係は良くないと報じられています。M氏も「妻との度重なる口論によるストレスで」(35p)と「事情説明書」で述べています。そうなると打田氏にとってベストな選択は義理の姪とその親に離婚を勧めてM氏との親戚関係を終わらせることです。親戚でなくなれば雑誌で批判されることもありません。

このように打田氏にとって、M氏は親戚関係を終わらせることのできる遠い親戚であり、親戚だから庇うとは限らないのです。むしろ親戚関係を終わらせてしまう方が得策です。この問題は『東洋経済』でも報道されましたが、打田氏とM氏が親戚である以上に特に親しいことを証明する情報は出ていません。

義理の姪の結婚相手だから打田氏が横領事件に絡むと考えるのは論理の飛躍です。

お金を取り返す

横領されたお金が返ってこないこともありますし、横領した人間が全員懲戒解雇される訳でもありません。被害金額の回収と懲戒解雇は難しいのです。

横領事件が発生したときに、拙速に懲戒解雇してお金を取り返せないトップよりも、懲戒処分を交渉カードにして横領犯やその親族からお金を返還させることを優先するトップの方が組織にとっては有能です。神社庁のお金は神社関係者から預かったお金であり、取り返すことを最優先するのが神社庁を信頼してお金を寄付、協賛してくれた人に対する責任です。お金の回収よりも懲戒処分を優先するのは、自分の正義感を満足させたい、犯人を罰することでトップに批判の矛先が向けられるのを避けたいからであって、本当に神社庁のこと、寄付してくれた人のことを大切に思っているのであればお金の回収を優先します。「懲戒解雇しましたから」と幕引きを図るのは寄付してくれた人を軽んじています。そのため東京都神社庁長がお金を回収したことをきちんと評価すべきです。

関係者って誰?

雑誌でよく見かける「関係者によれば」という情報ほど信用できないものはないと私は思っています。利害関係者の場合もあるからです。

例えば、現在、神社本庁では内部で派閥抗争をしています。そのため神社本庁関係者は①統理派、②田中派、③その他、に分類されます。どちらかの派閥に属している関係者が、対立派閥を批判するコメントを述べた場合、そのコメントには客観性がありません。

記事では、東京都神社庁の横領のタイミングが神社庁神社本庁の会合の前後に集中していると指摘していますが、銀行の窓口が開いているのは平日、神社本庁と東京都神社庁の会合も平日、そして週一回は都内で何らかの神社関係者の会合が開催されています。だから確率的に横領の前後数日に神社関係の会合があるのは当たり前です。横領されたお金と会合の因果関係の証明にはなりません。

政治家は人気商売

また記事では政治家との関係が指摘されていますが、政治家というのは有権者の票がないと失脚する人気商売です。だから「応援してます」と近づけば愛想良く応じてくれます。ましてや後援会など応援してくれている団体のメンバーなら簡単にツーショット写真に応じてくれます。

したがって打田氏と安倍元首相、M氏と丸川議員の写真は打田氏とM氏が自民党に特別な影響力があることの証明にはなりません。写真を見るときはどういうシチュエーションかに注意すべきです。スーツで握手しているだけでは政治家が支援者へのファンサービスとして撮影した記念写真の可能性が高いので親密であることの証明にはなりませんが、プライベートな装いで一緒に会食しているなら親密な交際があることの論拠になります。ダイヤモンドのM氏と丸川議員の写真はどう見ても支援者へのファンサービスとしか見えません。ディズニーランドに行ってミッキーと写真を撮ったレベルの情報で、雑誌に掲載するほどの価値はありませんし、ファンサービスの記念写真を自民党との関係の論拠として採用するのは無理筋です。

総じて論理の飛躍や情報の偏り、情報不足を憶測で補う無理筋な論理展開があるというのが感想です。

宗教法人規則と契約に関するコメント

法律論に関するコメント

過去の記事神社本庁憲章は規則か? - 神道研究室に対して以下のようなコメントをいただきました。文章から読み解くに、法律学を専攻された方と推測します。

宗教法人の規則は国家と法人の契約ではないです。 憲章と庁規の矛盾やそれぞれの過不足については確かに問題ですが、法律論として語るのであればもう少し法学的に適当な議論をなさるべきだと思います。

さて、ご指摘をいただいた私の文章は以下の通りです。

そもそも宗教団体が国家(所轄庁)に規則を提出し、その認証を受けることで宗教法人になります。そのため「宗教法人「神社本庁」庁規」は宗教団体神社本庁と国家と取り交わした一種の契約であり、神社本庁はこの契約に基づき宗教法人としての権利を許されているのです。

ここで「契約」の定義について確認しますと、「契約」とは「当事者間の合意により法律上の権利義務関係を生じさせるもの」です。契約は契約書ではなく、口頭でも成立します。そして宗教法人設立では以下のような合意が形成されています。

  1. (国)宗教法人法の条件を満たして認証をうければ宗教法人として認めますよ。
  2. (宗教団体A)うちの団体は宗教法人になりたいので条件を満たして申請します。
  3. (国)宗教団体Aは条件を満たしているので宗教団体として認めます。

この「合意」の結果、宗教団体Aには宗教法人としての権利と義務が発生し、国家には宗教法人Aの所轄庁という権利と義務が発生しています。このように合意の結果、法律関係が発生していますので、国と宗教団体Aの関係は上述の「契約」の定義に該当します。

このロジックにおける「契約」の考え方はきわめて原始的です。「契約」の定義に立ち返って世の中をみれば結婚も2人の合意により法律上の婚姻関係が発生する契約になりますし、国家制度そのものも契約で成り立っている(社会契約説)ことになります。突き詰めて考えれば、世の中のあらゆる法律関係は「契約」が根幹にあるといっても過言ではないでしょう。

法律学では、そこまで本質に戻って解説する必要もないので、宗教法人法に関する学説・概説書において「規則の認証」を「契約」を用いて解説したものは管見のかぎり見たことがありません。民法の定める「典型契約」の13類(贈与、売買、交換、消費貸借、使用貸借、賃貸借、雇用、請負、委任、寄託、組合、終身定期金、和解)にも該当しません。したがってコメントの「宗教法人の規則は国家と法人の契約ではないです」に対しては、法律学の通説としてはその通りでしょうし、私も厳密な法律論として(=法律学系の学会に対して)「宗教法人規則の認証は契約である」という主張をするつもりはありません。そのため私は「一種の契約」と「一種の」という前置きをわざわざしています。

加えて申し上げますと、時局問題を考えれば、すべての宗教法人は「規則は社会との契約だ」というレベルの認識で法令遵守に励むべきではないかという問題意識も根底にあります。

コメントの趣旨は「神道博士のロジックは法律系の学会で通用しないよ」というご忠告としてありがたく頂戴いたします。それは仰る通りですし、ご指摘には感謝します。ただ私の記事は、神社関係者に対して庁規と憲章の問題をわかりやすく解説することを目的としたものであり、私の文章における「契約」の定義は上述の通りです。今後は一般向けにもわかりやすく、かつ法律論としても成立するレベルに精進したいと思います。

あと法律学の見地から「憲章と庁規の矛盾やそれぞれの過不足については確かに問題」というコメントをいただいたことには感謝いたします。

斎藤幸平氏の「コモン」論は現場から乖離している

外苑はコモンか?

新進気鋭のマルクス研究者である斎藤幸平・東京大学大学院准教授が外苑再開発についてコメントしました。斎藤幸平「企業に商品化される神宮外苑」の大問題 「私有地だから自由」は社会の豊かさを破壊する | 環境 | 東洋経済オンライン

斎藤氏は外苑を「神宮外苑のような空間は「コモン」(社会の富、共有財産)であり、それは私たちの手で守るべきものだ」と断言します。ここまでは従来の反対派の主張と同じですが、斎藤氏は「私有地に対して部外者がとやかく言うべきではない」といった再開発に対する賛成意見に対して「このような考え方はまさに「魂の包摂」(※)の典型だ」と反論しています。

しかしながら、この反論は反論になっていません。そもそも「魂の包摂」とはマルクスが『資本論』で唱えた概念で、東洋経済オンラインの注釈によれば現在のマルクス主義者は「労働の現場だけでなく資本の論理に従って生きるようになること」という意味で使用しています。

さて斎藤氏の反論は、その根拠である「魂の包摂」、つまりマルクス主義が正しいという前提でしか成立しません。20世紀における壮大な社会実験の結果を見れば、マルクスの理論と思想を鵜呑みにできないことは明らかです。

簡単にまとめてしまうと、「私有地に対して部外者がとやかく言うべきではない」あるいは「神宮外苑を維持するにもお金がかかるのだから、(再開発で維持費を稼ぐことは)仕方ない」という意見に対して、斎藤氏はそんなのはマルクスが許さないぞと言っているようなものであって、論理的な反論になっていません。このような噛み合わない議論に陥ってしまうのは、斎藤氏の視点が現場から乖離しているからです。

現場の視点で考えよ

あるものを「みんなのもの」(コモン)とした場合、みなで楽しみを分かち合う「享受」と同時に、維持するための「負担」も分かち合わないといけません。ところが反対派も斎藤氏も「享受」ばかりを要求し、「負担」を分かち合おうとはしない。マルクスがよみがえったら「私の理論は労働者の自立のためにあるのであって、フリーライダーを容認するものではない」と怒るでしょう。

現場の人々は「平等」に敏感です。「自分だけ楽しみが少ない」または「自分だけ負担が多い」と言った場合、すぐに怒りの声があがります。不公平を改善してほしいという当然の要求です。だから神社の祭りでも、自治会の行事でも、リーダーになる人間は利益・負担が偏らないように細心の注意を払う。「負担の平等」というのは「自治」にとって基本中の基本です。「享受」と「負担」のバランスが崩れたら「自治」組織が崩壊しかねません。これが「現場の感覚」です。

明治神宮崇敬会を軽視すべきではない

斎藤氏は「私的所有の権利は、すべての自由を保障するものではないからだ」とも主張しますが、だったらどこまでが保障されて、どこからダメなのかを法的根拠と共に示すべきでしょう。それが研究者としての仕事です。

また外苑の歴史について次のような見解を示していますが、こちらも的外れです。

神宮外苑の公共性の高さには特別なものがある。歴史を見ればすぐにわかるが、100年前に全国から献金や献木があり、10万人以上の勤労奉仕でつくりあげられた。現代で言う、クラウド・ファンディングであり、ボランティアだ。戦後に国から明治神宮に格安で払い下げられた際にも、「民主的に管理すること」という条件付きだった。

神社は、氏子崇敬者が集まって総代を決め、総代が集まって責任役員を決め、責任役員会で運営を決定するということになっています。明治神宮の財産も明治神宮奉賛会を中心とした崇敬者から選ばれた総代・責任役員によって「民主的に管理」されています。その「民主的な管理」の決定が「再開発」なのです。

創建時に献金や献木を集めて外苑をつくったのは明治神宮奉賛会です。奉賛会は事業を完遂した1937年に解散し、その後は公法人・別格官幣社として国家の責任で維持されていく予定でした。戦前期に神社の民営はできませんでしたので。ところが敗戦と神道指令により明治神宮は民間の宗教法人になることになりました。このままでは維持できません。そうしたときに明治神宮(内苑・外苑)を守るために、浄財を寄付しようという立ち上がった崇敬者によって結成されたのが(一財)明治神宮崇敬会です。創建時だけではなく、戦後もずっと全国崇敬者からの「クラウド・ファンディング」的な方法で内苑・外苑は維持されてきたのです。だから明治神宮の運営に対して意見を述べることができるのは維持のための寄付をしてきた明治神宮崇敬会だけです。

明治神宮の運営に口を挟む権利があるのは明治神宮護持のために寄付してきた人だけなのに、斎藤氏も反対派も「全国民」あるいは「都民」にすり替えてしまっている点も根本的な勘違いです。このように明治神宮(内苑・外苑)を守るために寄付をしてきた明治神宮崇敬会を無視している時点も斎藤氏の理論に欠けている視点です。これも現場感覚から乖離しています。

松尾潔氏の「Relay~杜の詩」評を評する

松尾潔氏の評

音楽プロデューサーの松尾潔氏がサザンオールスターズの「Relay~杜の詩」、桑田佳祐氏の問題意識についてRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』でコメントしました。桑田佳祐が神宮外苑再開発に異を唱える歌「Relay~杜の詩」に松尾潔もエール - RKBオンライン

最近桑田さんは「自分たちは人生の残り時間を数えるような年齢になっているけれど、この先の未来を生きていく次の世代のために何を残せるか」ということに、すごく自覚的になっています。

このコメントだけ見れば立派な心掛けだと思えてきますが、「Relay~杜の詩」でやろうとしていることは、「この先の未来を生きていく次の世代のために明治神宮のお金で外苑の杜を残そう」というものです。

松尾氏はサザンオールスターズにとっての外苑はビートルズにとっての「アビィ・ロード」にあたるとも主張していますが、外苑は明治神宮等の私有地、「アビィ・ロード」は公共道路ですから同列に論じるのはどうかと思います。それに自分たちにとって思い出の風景だからといって自分たちの思うままにできる訳ではありません。

例えば、『ドラえもん』には、のび太ジャイアンが遊ぶ土管のある「空き地」がありますね。空き地ですから土地所有者がいます。しかも土管を積み重ねているのは、現代の感覚からすれば「倒れたら危険」ですよね。その土地所有者が家を建てようとしたときに、のび太たちが「ここは僕たちの子ども時代の思い出の場所だから家を建てるな」と泣き叫び、空気砲をもって立てこもることは正しい行為ですか?その反対運動は「僕たちの思い出の場所を維持するために、土地所有者は固定資産税を払い続けろ。土管が倒れて子どもがケガをしたら土地所有者が責任を取れ」と土地所有者の権利を侵害し、コストとリスクを押し付ける不平等・不公正な要求です。空き地を守りたいのであれば、土地所有者から空き地を買い取るのが大人の対応です。

根本的な勘違い

この「Relay~杜の詩」の中でも印象的なのは、「いつもいつも思ってた 知らないうちに決まってる」というフレーズです。これは(神宮外苑の再開発を進める)東京都への批判を超えて、政府の閣議決定でいろんなことが決まっていることへの言及ともとれるわけです。

外苑は税金で維持されている訳でもなく、再開発も税金で行う公共事業ではありません。私法人の事業と閣議決定をごっちゃにしている時点で、松尾氏がこの問題における公私を完全に誤認していることがわかります。

外苑は公共の公園ではなく、宗教法人の私有地です。だから崇敬者、近隣住民など工事の影響を受ける人以外に広告する義務はありません。桑田氏へのアンサーは「知らないうちに決まってるのは、あなたが外苑維持のコスト・リスクを負担していないから」です。

どうしても外苑を自分たちの希望する状態で維持したいのであれば、そのためのコストとリスクを負担すべきです。リスクとコストを誰かに押し付けて、自分の理想を実現させようとするのは利己主義でしかありません。そのような利己主義を私はかっこいいとは思わない。

花菖蒲ノ會が主流派の神社庁

質問への回答

次のような質問をいただきましたので回答します。

私が所属する〇〇県の神社庁は、花菖蒲ノ會が牛耳っており、最高裁で負けても、当事者はその役職に居座りそうです。その場合、本庁から包括関係を解き、新たに組織した〇〇神社庁と本庁で包括関係を結んでもらうことは可能でしょうか。

花菖蒲ノ會が牛耳っている現在の神社庁(A神社庁)に対し、新しいB神社庁をつくって神社本庁から「A県はB神社庁を正式な神社庁とする」と認めさせることができるかということですが、結論から言えば不可能です。

B神社庁が機能するためには、神社本庁と現在のA神社庁の関係を廃止or大幅な変更をしないといけません。それは評議員会で承認を得る必要があります。評議員会で多数決を取った場合、花菖蒲ノ會は反対するでしょうし、花菖蒲ノ會に賛同しない人のなかにも「新しい神社庁設立はやりすぎだ」と反対に回る人が多くなると思いますので、否決される可能性が高いと思います。

また神社庁の役員も結局は選挙です。質問者が花菖蒲ノ會支持者に退任してもらいたいのであれば、次の役員改選のときに選挙で戦って勝つしかありません。