神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

外苑再開発は誰のため?

公園は誰のものか

想像してみて下さい。あなたの地区には公園がありません。自分たちの子どもが遊ぶ場所がないのは不憫だと自治会で話し合って、公民館の隣に遊具、花壇、生垣などを設置して小さな公園をつくりました。設立時に一軒あたり2万円を拠出し、さらに公園を維持するために修繕費積立金として自治会費に年間3000円の上乗せ、さらに輪番制の公園掃除や自治会全員での大掃除などの負担がありましたが、自分たちの子どもが喜ぶためと思って負担してきました。

しかし、年月が経過して、あなたの子どもは成長して都市部に引っ越しました。周りを見渡せば老夫婦の世帯ばかりで、公園を維持していくのはしんどいという声が多くなり、とうとう自治会の総会で公園の廃止を決定しました。

そうしたら隣の自治会から「公園はみんなのものだ。我々もA地区公園の遊具で遊んだことがあり、公園に愛着をもっているし、花壇は地域の貴重な自然だ。そんな貴重な空間を破壊するな」とクレームを入れてきました。

このクレームに対して、あなたはどう思いますか?

この公園はうちの自治会の住民がお金も労力も出して維持してきたものであって、お金の労力も負担しない隣の自治会にとやかく言われる筋合いはない。そう思うのが当然ではありませんか?

この構図は明治神宮外苑再開発とそれに対する反対運動にそっくりそのまま当てはまります。

神宮外苑の自然と歴史・文化を守る国会議員連盟

維持してほしいというのであれば、維持のためのコスト(お金と労力)を負担するのが当然でしょう。ところが超党派の議連である神宮外苑の自然と歴史・文化を守る国会議員連盟」(発起人代表・船田元 衆議院議員)は、外苑維持について公金支出は憲法第89条により「できません」と断言しました。

自民・船田元氏、明治神宮外苑再開発は「内苑を守るため外苑で稼ぐ構図」クラファン活用の私案も(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

公金支出を否定した上でクラウドファンディング明治神宮にやってもらって、それに対して「我々が積極的に協力するということも1つので道ではないか」と私案を述べたそうですが、それって結局のところ「明治神宮で何とかしろ」と言っているのであって無策に等しいですし、「我々が積極的に協力する」という言い方にも本気度を感じられません。本気なら「まず私が1000万円を寄付しますので、皆さんもよろしくお願いします」と呼びかけるか、「私が寄付金を集めて見せます」と責任を負うことを表明するものです。

私はこれまで神社の神職や総代が、伊勢神宮式年遷宮や各地の神社の修繕のために寄付金を集める苦労を見てきました。寄付金集め・奉賛活動のリーダーはまず自分が身銭を切る、そして頭を下げて協力をお願いする。それでなければ寄付は集まりません。船田議員の私案は寄付金集めを甘く考えすぎです。

誰のための再開発か

船田議員の会見で最も重要な点は、再開発に反対している国会議員の方々は公金を支出する意志がないということが確認できたということです。公金が支出できないのであれば、明治神宮外苑は「公共財」あるいは「コモンズ」ではなく、宗教法人の私有地だということです。

最初の公園の話といっしょで、そのものを維持のための負担をしている人に、そのものをどうするかという議論に参加する権利が与えられます。税金で維持される公園なら納税者に参加する権利がありますが、外苑は税金で維持されていません。外苑を維持しているのは宗教法人明治神宮です。だから外苑は都民の共有物ではなく、明治神宮崇敬者の共有物です。外苑をどうするかという議論に参加できるのは明治神宮の崇敬者だけです。明治神宮崇敬会に入会していない都民に議論に参加する権利はありません。

再開発?神宮外苑 イチョウ並木で有名な都民の憩いの場に起きようとしている変化とは?【風をよむ】サンデーモーニング(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース

上記記事の最後で誰のための再開発か…その是非が今、改めて問われています」と問われていますが、そんなの明治神宮を崇敬する人々のための再開発に決まっています

この記事では静岡文化芸術大学松田達准教授が「関係者の人が納得する説明が必要。(中略)住民不在で議論もないまま進んでしまっているという感じが否めない」ともコメントしていますが、この問題の「関係者」とは「住民」ではなく「明治神宮の崇敬者」です。

この根本的な誤解は「サンデーモーニング」や松田達准教授だけではなく、広くマスコミに浸透しております。その誤解に基づいた社会正義が市民運動という大きな波になっているのが現状です。アーティストなどで再開発反対を表明している人もいますが、彼らは事業者という権力に立ち向かう「ロック」(反骨精神)の持主ではなく、市民運動の波に乗っているだけだと私には見えます。むしろ「外苑は公共財じゃないよ」と主張している人間の方が、誤った社会正義という大きな波に立ち向かう「ロック」な精神の持ち主だと思いますね。

イコモスは歴史問題について見解を示すべき

船田議員とともに会見した、イコモスの石川幹子氏は「内苑のために外苑(の再開発)ということは久しくいわれてきたが、内苑のために外苑を壊していいということになると(創建時の)理想が失われる」と意見を述べたそうですが、外苑が創出された目的は自然保護でもレクレーションでもなく、明治天皇昭憲皇太后を記念し、明治神宮を崇敬する心を深め、国体精神を発揚することにあることは「外苑将来の希望」に明記されています。言い換えれば、外苑とは皇室と神道を敬愛する人々がその精神を広めるためにつくった空間なのです。

この国体精神というのは、葦津珍彦氏らが主張するように純粋に皇室・神道を愛する事であって軍国主義とは別物ですが、村上重良氏や島薗進氏らのように軍国主義の源流と批判する人もいます。最近でも立命館大学の権学俊教授が総力戦体制における精神的(ナショナリズム)拠点として外苑を論じています。

神宮外苑はかつて帝国の中心だった 結びついたスポーツと天皇制:朝日新聞デジタル

明治神宮軍国主義の精神的拠点とみなす考え方に対して、イコモスはどのような見解をお持ちなのでしょうか?この点について石川氏ははっきりさせるべきでしょう。外苑は軍国主義とは関係がないので保存すべきと考えているのか、軍国主義の拠点とみなしつつ保存すべきと考えているのか、曖昧にして良い点ではないはずです(同じことは権学俊教授の主張を掲載した朝日新聞にも言えます)。

署名と政治的解決

反対運動に20万人以上の署名が集まったとのことですが、その20万人はなぜ明治神宮崇敬会に入会して内部から「今のままで維持していきましょう。我々はそのためのコストとリスクを負う覚悟です」と主張しないのでしょうか?

明治神宮とその崇敬者は外苑の維持についてコストとリスクを背負っています。それを共有してはじめて交渉のテーブルに座ることが許されるのであって、コストとリスクを負わない人間が何百万人の署名を集めようと交渉する必要はありません。反対派の主張は「我々が今のままの外苑を楽しむために、明治神宮とその崇敬者はお金と労力を出し続けろ」と言っているのと同じであって、明治神宮とその崇敬者の負担について配慮がまったくない、非常に利己的な要求です。

外苑を「コモンズ」として議論していくためには、明治神宮がコストとリスクを負っている状況を解消するしかありません。そうなると公費補助や政府や東京都が買い取るなどの方法がありますが、公費補助は議連によって否定されてしまいました。買取りについて「外苑は内苑を維持するための財源だから明治神宮が譲ってくれない」と政治家は言い訳をするでしょうが、明治時代に公園用地が不足した時に東京府は社寺の土地を買い取って公園にしています。このときも社寺は「この土地の借地料収入で社殿・本堂の維持費を賄っているので売りたくない」と嫌がったのですが、当時の東京府知事は購入したい土地の1年間の借地料収入を計算し、その同額が利息で賄えるだけの金額を買い取り価格として提示することで問題を解決しました。このように現代の政治家は少し前までチョンマゲをしていたような政治家に発想の柔軟性で負けているのです。

今回のケースなら外苑から内苑維持費のために繰り入れている金額を明治神宮から教えてもらって、それを利息なり配当なりで保証する現金・株式を用意すれば財政的な問題は解決します。「そんな大金をどうやって用意するんだ」とか「そんな大金を公費から支出したら憲法89条にひっかかる」と言うのであれば、それこそ反対派の市民がクラウドファンディングして集めればいいのです。反対派の市民が寄付を集めて購入し、自分たちで財団でもつくって公共財として管理するか、国や都に寄付をして公共財として管理する。自然保護・環境保護といった人類が平等に負担する問題を明治神宮だけに押し付けるような活動よりは、明治神宮から買い取る募金活動をした方がよっぽど現実的ですし、自然保護の負担の公平を保つことができます。

まあ外苑が支えている内苑維持費の問題を解決しても、「明治天皇」あるいは「明治神宮」という名称を残すなどの条件を明治神宮は出してくるでしょうが、反対派は創建の趣旨を重んじろと主張している訳ですから「我々が購入した土地だから我々が新しい名称をつける」などとは言わないでしょう。あくまで明治天皇昭憲皇太后の顕彰が外苑の創建の趣旨です。

この問題は①明治神宮をはじめとする土地所有者がコストとリスクを負うものであるなら所有者の自由にさせる、②外苑を買い取るなりして公共財にする、のどちらかしかありません。少なくとも明治神宮をはじめとする土地所有者だけに負担を背負わせて「みんなの公園だ」と主張することに大義はありません。

滋賀県における資金不正持ち出し事件

東京都と滋賀県

中外日報」によれば滋賀県神社庁大津支部で4500万円の不正持ち出し事件が発生しました。持ち出したとされる男性は、すでに奉仕神社を懲戒解雇されているそうです。https://www.chugainippoh.co.jp/article/news/20230915-001.html
この事件は「神社本庁の自浄を願う会」でも報じられました。https://jijyo.jp/page.php?id=402

しかし、「神社本庁の自浄を願う会」は東京都神社庁職員の非違行為の際に都神社庁の対応を批判していましたが、滋賀県神社庁の対応は批判していません(むしろ滋賀県神社庁の対応を引き合いに東京都神社庁の対応をを身内に甘いと批判しています)。ただ客観的に見ると東京都神社庁の対応の方が数段上です。今回はこの点について検証します。

対応の優先順位

例え話をしましょう。あなたは宮司です。明日の例大祭でお供えする鯛を地元の魚屋に頼みました。いつもは前日の日中に届けてくれるのですが、夕方になっても届かないので魚屋に電話しました。そしたらどうでしょう!魚屋の従業員が忘れていてお店に鯛がないそうです。しかも明日は市場が休みとのこと。とりいそぎ店主がお詫びと説明にきました。宮司であるあなたが聞きたい説明は次のどちらですか?

  1. 従業員が注文を受けたが、それを店主に伝えず、また発注もしていない。従業員は懲戒(譴責)処分にした。
  2. 明日は市場が休みだが、同業者に電話して鯛を譲ってもらえる算段がついた。いま従業員に受け取りに行かせている。〇時にはお届けできる。

大半の宮司は「従業員の処罰なんてどうでもいいから鯛を用意してくれ」と2を希望するでしょう。

このようにトラブルがおきたときに、原因をつくった人間を処罰するより先に、被害を回復させることを優先しないと他の人に迷惑がかかります。

東京では返済されている

神社庁のお金はその都道府県の神社関係者の負担金や寄付です。だから不正な支出はあってはならない。もしあったなら、庁長以下役員が優先すべきはお金を取り戻すことです。それが負担金や寄付を納めてくれた人々に対する責任です。

この点、東京都神社庁は追加で発覚した分も含め返済させています(6月18日付「東京新聞」)。発覚が2022年12月ですから6ヶ月でお金を取り戻すことに成功しています。

これに対し、滋賀県神社庁大津支部は2月に発覚し、約7ヶ月後の9月15日時点でまだ双方が代理人弁護士を立てて交渉している状態です。

したがってお金を取り返す手際に関しては東京都神社庁の圧倒的勝利です。

情報公開

東京都神社庁は2月の協議員会で報告し、その内容を庁報に掲載しました。庁報は都内の神社関係者や全国の神社庁に配られるものであり、非違行為があったことを数ヶ月後には神社界にオープンにしていたことになります。

これに対し滋賀県神社庁の問題は約7ヶ月間、公開されていませんでした。この間、東京都神社庁の問題が週刊誌や東京新聞に報道されていたにも関わらずです。

このように情報公開という点においても東京都神社庁は一歩進んでいると評価できます。

懲戒処分したけど

また滋賀県の事件で当該人物は懲戒されていると報道されていますが、どこが懲戒処分を下したのでしょうか?

神職の懲戒には①神社本庁としての懲戒と②奉仕神社としての懲戒の二つがあります。そのため神社を懲戒解雇された上に神社本庁から神職資格を剥奪されるなど二重の懲戒を受けることもありえます。滋賀県のケースは記事を読む限り神社の懲戒だと推測します。だとしたら神社本庁への報告はしていないのかという疑義が生じます。

神職資格を発行しているのは神社本庁なので、神社に神職資格を剥奪する権限はありません。なので神社から懲戒解雇されても、それが神社本庁に報告されていなかったら他の県で神職をすることが可能です。だから神社として懲戒したとしても神社本庁に報告していなかったら、当該人物によその神社で奉仕できる可能性を残していることになります。

ただ東京都の際にも論じましたが、「懲戒規程」第4条「懲戒事由が判明したときは(中略)統理宛具申しなければならない」という報告義務は、「懲戒規程施行細則」により「刑事事件に関し、刑の宣告を受け裁判が確定したとき」が適用されるから裁判確定後に報告すればよいものと考えます。したがって東京都神社庁滋賀県神社庁も報告義務を怠ったとはいえません。

一般論として、懲戒処分というのは相手の社会的評価に大打撃を与えるので、会社における横領事件などではお金を取り戻すための交渉カードになります。そもそも不正に持ち出されたお金が必ず戻ってくるとは限りません。罪が確定しても「1円の残さず使い切った。差し押さえでもなんでもしろ」と開き直る犯人だっているのです。毎月数万円ずつ返済させたとしても数千万円の被害の場合は一生かけて返済できるかわからない。そうした相手に対し懲戒処分を交渉カードとして使うことで、「身内が懲戒解雇されると親族の就職や結婚に支障が出るから親族で立て替える」など回収できる可能性が高まります。だから東京都神社庁が普通解雇にして懲戒解雇というカードを残したのは、返済交渉を有利に進める上で合理的判断だったと思います。

そもそも東京都神社庁の「普通解雇」だって社会的な制裁になります。経歴をみれば「依願退職ではない」という時点で本人の責に帰する事由があるということがわかるからです。経営者の視点から不当解雇で逆に訴えられるリスクを踏まえて考えれば、「懲戒処分」という交渉カードを残しつつ、「普通解雇」を本人に納得させた東京都神社庁の手際は評価されるべきものです。

それでも「懲戒」という言葉の響きには人々の正義感の満足させる効果があり、トップはそれを行使することで「自身は正義の鉄槌を下す立場であり、責任を問われる立場ではない」という印象を大衆に与えることができます。でも本当に組織やお金を出してくれた人々のことを考えているなら、「なんで懲戒処分を下さないんだ」と批判を浴びてでもお金の回収を最優先させるべきです。

東京都神社庁が懲戒処分をしないのを隠蔽だと批判する人もいましたが、隠蔽する気ならそもそも庁報に掲載しません。

神社庁にお金を協賛・寄付してくれた人々のことを考えれば懲戒処分よりもお金を取り戻すことが急務だと思います。そのため懲戒処分を下したからといって滋賀県の対応が東京都神社庁よりも優れているとは思えません。むしろ返済させた東京都神社庁の方が評価されるべきだと思います。

SNSなどの問題

さて東京都神社庁の事件の際に執拗に小野庁長の引責を求めるネット投稿がありました。しかし東京都神社庁のときに庁長の監督責任を追求していた人々は、今回の滋賀県神社庁長の監督責任には沈黙しているようです。これでは公平な対応とは言えません。

あと「神社本庁の自浄を願う会」は中外日報の当該記事の写真を掲載していますが、中外日報のホームページでは一部のみ掲載し、詳細を読みたければ購読してくれと書いてあります。記事全文を掲載するのはコンプライアンス的に不味いのではないでしょうか?

現在、神社本庁総長をめぐる紛争がありますが、地道に神社を守っている神職・氏子のことを考えれば、こうした問題を政争の具としてはなりません。例え神社本庁の在り方について意見や立場を異にする相手であっても、その相手の困難を喜んだり、相手の困難につけこんで失脚を図ろうとするのは神道人らしい振る舞いではありません。

東京都に続いて一日も早く滋賀県からも全額返済の報が届くのを願っています。

東京都の外苑対策から政治手腕を考える

都知事が外苑再開発に待った

イコモスの提言を受けて小池百合子東京都知事は具体的な保全策を事業者に要望し、「事業者にはしっかり対応していただきたい」と述べました。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/277564

じゃあ今までは何だったのというのが率直な感想ですし、本気で再開発を止めたいのであれば要望書を出す前に事業者と面会して説得した方が確実です。直接事業者と対峙せず、要望書を出して終わるのは反対派へのパフォーマンスとしか思えません。

こうしたトラブルに際し双方の意見を聞き、説得と調整をするのが政治家の手腕であり、一方の言い分を伝えるだけなら政治家でなくてもできます。

ある自治会長の手腕

ある山村に法人化していない稲荷神社がありました。数十軒の氏子が氏神神社宮司を招いて夏に例祭を斎行していました。稲荷神社の土地は地主のAさんの私有地で、彼が固定資産税も払っていました。つまり稲荷神社の土地はAさんから地区がただで借りていたのです。

ところがAさん死後、地元を離れて就職していた一人息子は稲荷神社の土地を売却することにしました。今まで自治会の土地だと思っていた住民もおり、売却を知って驚いた住民は寄り合いを開きました。

住民は「先祖は立派だったのに」とか「郷土愛はないのか」などとその場にいないAの息子を罵りました。やがて自治会の総意として売却をやめろという抗議書を出そうという意見が大勢を占めました。そこに待ったをかけたのが自治会長です。抗議書で鬱憤は晴れるかもしれないが根本的な解決にならないと自治会長は直接Aの息子に相談すると自治会長預かりとして寄り合いを閉めました。

自治会長は約束通りAの息子と面会し、事情を聞きました。Aの息子はすでに他郷に家を購入し、故郷には帰るつもりはないこと、地域の稲荷神社の固定資産税を自分が負担するのは納得できないと回答しました。そこで自治会長は固定資産税を自治会で負担する案を提案しましたが、名義を残すと倒木や土砂崩れの責任をとらされるから嫌だと断られました。そこで安価で譲ってほしいと打診したところ合意を得ました。

自治会長が戻って報告したところ、無償で寄付すべきだろと不満な住民もいましたが、この際、仕方ないという意見が9割でした。しかし、1割の住民が信仰上の理由から自治会費で土地を買うのは納得できないと反対しました。そもそも自治会で稲荷神社の祭りをしてきたのも不満だったというのです。

今度は自治会のなかで稲荷神社の氏子とそうでない住民の間で争いになったのです。自治会長は双方の意見を調整し、自治会から氏子会を独立させることにしました。そして氏子会として集めた資金で稲荷神社の敷地を買うことができました。

政治の基本は調整

周旋の労を惜しまなかったため、稲荷神社の措置についてA家も住民も遺恨を残しませんでした。関係者の意見をよく聞いて調整する。これが政治家の基本であり、この自治会長は本職の政治家ではありませんでしたがその政治手腕は老練でした。

世の中の政治家を見ると、公平を図ろうと調整に走り回るのではなく、選挙で票が集まる方に味方する傾向があるように思えます。大衆やマスコミの顔色を窺い、時勢によって節をころころ変える。風見鶏な政治家の増加が日本の政治を劣化させた原因の一つだと私は思っています。

そうした観点から今回の外苑再開発への対応は政治手法として評価できません。

創設時の阪谷芳郎ならイコモスと事業者の直接会談の場を設けて自身が仲裁役をつとめて双方から「妥結」を引き出すとか、外苑を公有化するなどの知事主導の具体的解決策を打ち出すくらいはしたでしょう。

要望書を出すだけというのは、自分も再開発に懐疑的だと大衆に示すパフォーマンスの域を出ません。

イコモスも学術会議も

おまえのものはおれのもの

電気も水道もない伝統的な住居に住んでいる人がクーラーのある生活をしたいと家を建て直す計画を建てました。あなたは文化的価値の高い伝統的な家を保存したいと思い行動することにしました。住民とどう交渉しますか?

仮に「そのままの状態で住み続けろ」と圧力をかけるのは、住民に不便な生活を強いることになり、不公平です。公共財だと主張するのであれば住民から土地と家屋を買い取って国や自治体の所有にすべきでしょう。最低でも維持管理費用に公的助成をすべきです。

明治神宮外苑の再開発も同じことで、外苑をコモンズだと主張するのであれば維持費も公有化すべきです。ところがイコモスや日本学術会議東京新聞、自然保護活動家の主張は明治神宮をはじめとする所有者に負担を強いるばかりで、負担をみなで分かち合う要素がまったくありません。

本当の自然保護とは全人類が自然の恵みとそれを保護するための負担を分かち合うことです。一部の人だけに自然保護の負担を強いて、自分たちは自然を謳歌するだけという利己的なスタンスは自然保護運動ではありません。

外苑に対するイコモスや日本学術会議東京新聞の主張は「おまえのものはおれのもの」と言っているようなものであり、恩恵だけではなく維持のコストを公有してこそ公共財であるというコモンズの基本から再確認すべきでしょう。

神道学者の勝利

国家神道軍国主義国粋主義を生み、それが侵略戦争になったという村上重良の国家神道史観は根強く、今でも島薗進国家神道批判の論文を発表し続けています。国家神道の神社というと大半の人は靖國神社を想像しますが、明治神宮天皇を神格化するために国家が作り上げた洗脳装置だという批判を受けてきました。これに対し神道学者は明治神宮創建は国家の扇動ではなく、国民の純粋な尊皇精神の発露だと反論してきました。

さてイコモスは正式名称を国際記念物遺跡会議(International Council on Monuments and Sites)、といい、ユネスコの諮問機関です。そのイコモスが下記のように提言を出しました。

国民の貢献により創り出された「神宮外苑」は国際社会に誇る、「近代日本の公共空間を代表する文化的資産」です。文化的資産は社会が共有することにより未来への礎となり、世界の文化の発展に寄与するものです。 

このようにイコモスは明治神宮外苑を国粋主義の遺物とせず、国際社会に誇る文化的資産と肯定的な評価を与えました。さらに日本学術会議も同様の提言を平成29年に出しており、また東京新聞をはじめ多くのマスコミはイコモスの提言を肯定的に報じています。見方を変えると、神道学者による「明治神宮軍国主義国粋主義のために創建されたのではない」という主張をイコモス、日本学術会議東京新聞等は認めたことになり、今後、明治神宮軍国主義または国粋主義の施設と批判することができなくなりました。そんなことをしたら再開発反対と論理的に矛盾することになります。

簡単にまとめるとイコモスも日本学術会議東京新聞も「外苑は国際社会に誇るべき文化的資産だから再開発をやめろ」と主張する代償として、「明治神宮国粋主義軍国主義の神社だ」と批判する資格を未来永劫失ったのです。

見直しの代わりに

明治神宮をはじめとする事業者に見直しが迫られていますが、だったら事業者は公的補助を求めればよいのです。

イコモスが「国際社会に誇る」と認定し、都民のオピニオン紙たる東京新聞や新進気鋭のマルクス研究者、政治家、著名人が保存すべきコモンズだと主張しているのですから、現状維持する代わりにそれにかかる費用を都の財政から支出してもらうのは当たり前のことではないでしょうか?

コモンズだから勝手に再開発するなと主張しておきながら、その維持に公的補助をすることに反対するのは論理的に矛盾します。みんなの物ならみんなで守る。小学生でもわかる簡単な理屈です。

事業者が計画のために費やしたコストもキャンセル料として負担すべきでしょう。

明治神宮という宗教法人が公的補助の受け皿になることにためらいがあるなら、外苑を維持するための公益法人を設立したらいい。公的補助と再開発に反対する人々からの寄付(維持しろと言うだけで寄付は嫌だと言う人はないでしょう)があれば、清掃や現状維持のための修繕費は捻出できるでしょう。

少なくとも口だけ出して負担からは逃げる見直し案に大義はありません。見直しをするなら、明治神宮をはじめとする事業者だけが維持コストを負担する状態の解消が最低条件です。

外苑再開発反対は正義か?

自然保護が正義とは限らない

世界には遠くの水源まで水を汲みにいかないといけない子どもがいます。パソコンの授業で本物がないから黒板にキーボードを書いて使用方法を説明する学校があります。そうした発展途上国が先進国レベルの生活をしたいからと森林を伐採して工場やインフラを整備することを、先進国のクーラーのきいた部屋に住む住民が「環境破壊はやめろ」と止める権利はあるのでしょうか?

どう考えても不公平ではあり、自分たちが自然のある地球を貪り楽しむために発展途上国の人々に不自由な生活を強いることに正義はありません。この場合は自然保護と経済格差の解消のバランスをとらないと公平ではありません。

これと同じことが外苑再開発に反対する人々に言えます。

あの山林は誰のもの

休日に都会の喧騒から離れて、家族と地方に旅行する。そこには電車や車の窓から豊かな緑が見えてくる。「やっぱり自然はいいよね」と家族と楽しい会話を交わす。そんなときにバッサリと樹木が伐採されて茶色の地面が露出した山が視界に入る。非常に残念な気持ちになる。「自然を破壊するなんてとんでもないことだ」という義憤が湧いてくる。こんな経験はないでしょうか?

でも、よく考えて下さい。あなたが豊かな緑と思った山林は誰かの所有地です。国かもしれませんし、個人かもしれない。ちなみに日本の山林のうち58%は個人の所有する私有林です。だから、あなたが見て楽しんだ山林は誰かの所有物なんです。そして山林を維持するのはタダではありません。土地所有者が固定資産税を払っている土地なんです。しかも大正時代や昭和初期は家を建築するのに材木が必要でしたから、山林を持っていれば財産になりました。しかしながら鉄筋コンクリートや安い輸入木材によって伐採費用の方が高くなって山林は負の財産でしかないというのが状況になってしまいました。だから大半の山林所有者にしてみれば、山林は収益が上がらず、固定資産税を取られるだけの土地なんです。だったら手放せよと思うかもしれませんが、収益の上がらない山村の山林なんて誰も買いません。だから山林を売りたいけど、売れない人がたくさんいる訳です。

しかも多くの山林所有者が自分の意志で山林を買った訳ではありません。先祖が田舎で農業・林業を営んでいたが、サラリーマンの方が生活が安定している、都会の学校で教育を受けさせたい、といった理由で自分たちは都市部で生活をすることにした。そうしたら両親の遺産として預金、家、敷地、田畑、山林を相続することになった。本音を言えば預金だけ相続したいが、一部だけ相続はできないので、いらない土地まで相続しないといけない。管理できない田舎の家は無人になり、田畑は荒れ、山林も放置される。土地所有者は誰も住まない土地や収益のない山林の固定資産税だけを徴収され続ける。さらに近隣住民からお前の敷地の雑草を刈ってくれ、お前の家の樹木が倒れて損害が出たから弁償しろ、という電話がくる。負の財産でしかない山林や田舎の土地に苦労している土地所有者は多いのです。氏子が減少してお祭りができないという問題をフィールドワークしていますとこの種の苦労話ばかり耳にします。

山間地に観光に行って満喫した自然は土地所有者の費用・リスク負担によって成り立っている

そんな費用とリスクを負担している人々に企業から「ここに新興住宅地・レジャー施設を建てますので売って下さい」と声がかかったら迷わずに売るでしょう。労苦から解放される訳ですから。そして始まった再開発で山林が伐採されることを「とんでもないこと」と止めさせる権利が都会に住んでいる人々にありますでしょうか?

それは「山林所有者は都会人のレジャーのために固定資産税を払い続けろ」と言ってるようなものです。格差問題というのは先進国と発展途上国の間だけのものではありません。日本国内においても都市と山間部の格差問題はありますし、山林所有者と都会からたまに観光に来て自然を謳歌するだけの人との間にも自然保護の負担の面において不平等が存在します。

勝手な言い分

山林を保護するためにはコストもリスクもかかります。「山林を破壊するな」と主張するのであれば、コストとリスクも負って下さい。山林伐採に反対運動するだけが環境保護運動ではなく、山林所有者の固定資産税を軽減するような政策を政府に要望する、募金を集めて山林を購入する、自分たちも山林維持のコストを負担する、そういった活動もできるはずです。

でもそのような活動をしている団体は聞いたことがありません。世の中に存在するのかもしれませんが、自然保護運動の主流にはなっていない。それは「自然保護」を叫ぶ人の大半が自然を保護したいが、自分たちの快適な生活は手放したくない、山林管理のコストもリスクも負担したくないと思っているからです。自分たちは負担しないで、発展途上国や山林所有者だけに負担を負わせることを正義の「自然保護」運動だと思うのは、極めて利己主義的な考え方です。そこに大義はない。

こうした利己主義的な考え方を自然保護運動から払拭し、コスト・リスクを平等に負担する自然保護が主流になっていかないと「SDGs」も失敗に終わるでしょう。

外苑再開発への反対意見

明治神宮外苑の再開発に対する反対意見で、明治神宮が負担して来たコスト・リスクについて自分たちも負うという意見を見たことがありません。外苑は明治神宮とい一宗教法人が所有し、それを公園的に開放している空間であって、税金で維持管理されているものではありません。外苑を「公共財」とか「コモンズ」だと主張する人もいますが、明治神宮はコモンズではありません。コモンズだと主張するなら、明治神宮をはじめ一部の私人がコスト・リスクを負担している状態を解消すべきでしょう。

反対運動に参加している政治家がいるのですから、国や都が明治神宮から購入して公営公園するとか、現状を維持するための公的補助をするなど負担を均等化する方法はいくらでもあるはずです。

明治神宮は「これからもみんなの外苑として開放していきたいから、古くなって危険な場所は建て直し、収益で維持費が捻出できるように改修したい」と言っているだけなのです。それに対してコスト・リスクについて歩み寄りをせずに現状維持を求めるのは、「明治神宮のお金で今まで通りの外苑を維持して、我々に使用させろ。なんか事故があったら明治神宮が責任をとれ」と言っているのと同じです。

リスクについて指摘しておきますと都心は排ガスなど樹木の生育にとって良い環境ではないので、山奥よりも若い樹齢で倒木や落枝のリスクが高まるのは自明です。そういうリスク管理の観点からも伐採はしておく必要があるでしょう。こういった問題で自然保護団体サイドの樹医が伐採の必要はないと太鼓判を押すことがありますが、だったら「もし倒木や落枝があったら診断した私が賠償責任を負います」と契約書を交わしてほしいものです。リスクを負わない保証では所有者は安心できません。

このように外苑再開発への反対意見は、所有者だけに負担を負わせる不公平なものです。

 

総長選任をこじらせているのは何か?

目的は何か?

神社本庁統理という最高権威を擁しながら「田中恆清に社会的制裁をして、新しいリーダーのもとで再出発しよう」という目的を達成できないのは次の2つの理由からです。

  1. 目的の一部に無理がある
  2. 手段に無理がある

今回はこの点について整理したいと思います。

目的の一部に無理がある

「田中恆清に社会的制裁をして、新しいリーダーのもとで再出発しよう」という目的は前半と後半にわけることができます。

  • 田中恆清に社会的制裁をする(目的1)
  • 新しい神社本庁のリーダーのもと再出発する(目的2)

このうち無理があるのは目的1の方です。無罪の人を罰することはできませんので、社会的制裁を下すためには田中恆清氏が罪人であることを証明する必要があります。しかしながら背任を立証することはできませんでした。これでは田中恆清氏を罰することはできません。

背任を立証できなかった人を裁くのは無理ですし、その必要もありません。だから令和4年の役員選挙の前に統理が評議員会などの公的な場で田中氏の名誉を回復させた上で、「そろそろ勇退して次の人に総長の座を譲りなさい」と諭していれば、田中氏は引退していたでしょうし、もし本人が続投を希望しても支持は集まらなかったでしょう。つまり目的1を捨てて、目的2だけを実現するのは簡単なのです。

どうしても田中氏に社会的制裁を下したいのであれば背任の立証をするしかありません。しかしながら田中恆清氏を悪の権力者だと思い込んで、みなで正義の鉄槌を下してやろうと盛り上がっていた人々の一部はキャンセル運動を止めることができず、「真実相当性」によって田中氏の有罪が認定されたのだという無理な解釈にすがったり、総長交代を実現することで目的1を達成しようとしました。キャンセルカルチャーの暴走と評してもいいでしょう。社会的制裁を無理に下そうとすれば、相手が抵抗するのは当然です。ちなみに疑惑をかけられたら辞任すべきと主張した人もいましたが、そのような冤罪を助長するような発想は社会正義に反する上、スサノオ武内宿禰の事績から考えれば冤罪と戦うことこそ「神習う」ことですから神道精神にも反します。

このように目的1に無理がありながら、目的1と2をセットで実現させようとしてすればこじれるのは当たり前です。

けじめがない

最初は背任容疑を声高に糾弾していたのに、いつのまにか不透明な運営や混乱の責任で辞任しろとシフトチェンジしている人も見られますが、それってどうなんでしょうか?

例えば、クラスで盗難が発覚し、担任教師は普段から素行の悪いA君を犯人だと追及したが、B君が犯人だとわかったとしましょう。無実の人を追求したのですから、教師はA君に「疑って悪かった」と謝るべきです。もしこの時に生徒に謝罪するのは教師としてのメンツにかかわるからと「普段の素行が悪いのが原因だ」と謝罪をしなかったらどうでしょうか?教師として相応しい行為ではありませんよね。

だから背任容疑を糾弾していたのに、辞任を迫る理由を不透明な運営や混乱の責任にシフトチェンジする前にけじめとして謝罪をすべきだと思うのですが、ネットなどを見てもそのような形跡は見られません。直接、田中氏に謝罪した人もいるかもしれませんが、未だに背任がなかったことを認めることもせず、けじめもつけず、ただ追求し易い方へシフトチェンジした人が多いように見受けられます。この点も支持を集められない理由の1つでしょう。

手段に無理がある

神社本庁の総長は役員会の多数の支持を得て、統理から指名されることです。役員会の多数が支持しないのに、統理が総長を指名した前例はありません。「議を経て」が「議決」を意味するかは裁判の最中ですが、過半数以上の理事(責任役員)の支持を集めた上で統理の指名を受けて総長に就任することが正攻法であることは議論の余地はありません。

令和4年の改選時の役員会で田中恆清氏が9対6で選挙を制しました。ここで田中氏に勝っていれば問題がなかったのです。選挙に負けたのに、前例のない統理の指名で逆転しようとするのには無理があります。

花菖蒲ノ會等は「統理の指名権」を主張しますが、それを明文化した規程も前例もありません。また仮に「統理の指名権」が存在するとすれば、「統理の指名責任」も発生します。役員会の議決に拘束されずに総長を指名するのですから、総長を指名した責任は統理個人に及ぶのが道理です。

令和元年度から3年度にいたる田中恆清氏の振る舞いが総長に相応しくないものであり、それを理由に辞任・就任辞退を迫るのであれば田中氏を指名した統理自身も「指名責任」として引責辞任すべきですし、田中氏を総長に指名したのは誤った判断だったと主張するのであれば統理は公的な場で自身の判断の誤りをすべての神社本庁関係者(地方の神職・総代を含め)に対し謝罪する責任も生じます。

そんなことを統理にさせてはならないと考える神社本庁関係者が多いと思いますが、だからこそ一切の責任が統理に及ばないように形式的な指名でなければならないのです。

統理様を仰ぐ

皇室を解体すべきと主張する政党と皇室護持を主張する政党が選挙で戦って、皇室を解体すべきと主張する政党が政権をとり、皇室批判を繰り返す政治家が国会で総理大臣に指名されたとしましょう。このときに天皇陛下が任命を拒否したり、国会の指名に反して皇室護持を主張する政党の政治家を任命することがあるでしょうか?

憲法学では天皇に総理大臣任命を拒否することはできないと解釈されています。そして、皇室にとって不都合な政権・総理大臣だったとしても、それが選挙によって示された民意であるならば堂々と受け入れるだろうと戦後の皇室が示されて来た足跡から推測できます。

皇室を敬慕する人々が皇室解体を主張するような政権を誕生させてはならないと考えるならば、選挙に勝つしかありません。だから神道政治連盟の活動は重要なのです。

さて花菖蒲ノ會会報3号で「統理様を仰ぐといふことは、この「おほみこころ」を仰ぐことに他なりません」という主張がありました。これに対してはすでに過去のブログで「万民一君」に反すると指摘しました。さらに付け加えるならば天皇陛下は一方の陣営を支持することは決してなさりませんので、統理が一方の陣営を支持したことを「おほみこころ」として仰ぐべきではありません。

本当に仰ぐのであれば

本当に統理を敬い仰ぐのであれば矢面に立たせるような真似はしません。総大将にかついではいけないのです。統理が田中氏を糾弾したいのであれば誰かが代わりに総大将になって田中氏と戦い、負けても統理に責任が及ばないようにする。そうするべきでしょう。

芦原高穂氏も同様で、田中氏に代わる総長としてかつぐのであれば、支持者たちが評議員会と理事会で過半数が確実にとれるように選挙運動を徹底してやる。それしかありません。「選挙で負けても統理の指名権でひっくり返せばいいや」という発想は本当に神社本庁統理という役職、鷹司家、鷹司尚武氏、芦原高穂氏のことを大切に考えている人からは生まれません。大切なものに一滴の泥も付着させずに担ぎきることができるかを真剣に考えれば選挙に勝つという正攻法で勝利を収めるしかありません。もし選挙で負けたとしても代わりに全ての泥をかぶる。今の状況は鷹司統理や芦原氏だけを矢面に立たせるようなもので、どうして代わりに批判を引き受ける人が支持者からでないのか疑問です。

後世はどう評価するか

次の改選時に田中氏が理事選挙・総長選挙で敗れたとしても、当然ですがそれは田中氏が罪人であることの立証にはなりません。また田中氏が悪の権力者だったことの証明にもなりません。田中氏が来期も続投することは常識的に考えて無理だからです。

田中恆清氏は昭和19年の生まれですから令和5年で数え80歳です。そんな高齢で来期も全国各地の式典に出席しないといけない神社本庁総長を務めるのは体力的に無理があります。しかも長期政権には飽きが来る。だから田中氏を人格者で有能だと思っている評議員も「そろそろ若い人に交代してもいいんじゃないか」と考えるでしょうし、そもそも本人の健康を考えて家族が止めるかもしれません。

そうなると田中氏を断罪した記録は残りませんから、未来の神道人は「神社新報」や本ブログを読んで「アンチ田中派は罪を立証できないままに終わったのだな」と評価するでしょう。

そもそも高齢・長期政権・ネガティブキャンペーンという不利な状況を考えれば、令和4年度の評議員会・役員会で再選したという点だけで大多数の神道人が田中氏の背任を信じていないこと、彼の人望の証明になるでしょう。

葦津珍彦の論文をもとに本庁問題を考える

40年前の論文

葦津珍彦の著作に「神祇制度思想史につき管見」という論文があります。1983年(昭和58年)だからちょうど40年前の論文ですね。この論文は葦津珍彦が神社本庁講師・教学委員を勇退するに際して、近代から昭和58年までの神祇制度と思想の大綱を論評したものであって、彼の思想(特に神社本庁に対する考え)を知る上では非常に重要な史料です。

今回はこの論文をベースに本庁問題について考えてみましょう。

統理の指名権

現在の総長の座をめぐる議論は次の①と②で議論になっています。

神社本庁総長は責任役員の多数決で決定し統理が形式的に指名する

②責任役員の多数決の結果に関わらず統理の指名によって総長は決定する

この問題について私は過去のブログにおいて多数決の結果をひっくり返して統理の指名によって総長が決定した「先例」がないこと、実質的に「選挙」という認識が関係者に見られること、神社本庁の原案である「神社連盟」案においてトップ(会長)の選出方法は「下からの選出」と構想されていたこと等を理由に①と考えるのが妥当と論じてきました。

そして神社連盟案の構想を練ったのが葦津珍彦であり、彼が創設時から神社本庁の理論的・思想的指導者であったことは万人が認めるところです。

さて②(統理の指名権)の論者のなかには「葦津珍彦は神社連盟案の段階では下からの選出を是としていたが、神社本庁となっていく過程でトップダウン、つまり統理による指名へと考えを改めたのではないか」と主張する人もでてくるかもしれませんので、神社本庁がつくられた後に葦津珍彦の見解を当該論文から見てみたいと思います。

私は神道指令によって神社が公法人たることを禁ぜられた時にも、諸宗教との本質の異なることを明らかにすべく、神社は宗教法人にならないで、民法の祭祀を目的とする法人となり、本庁はその財団の連合としての社団となることを欲した。

ここで神道指令が発令された時に葦津は神社は財団的運営、本庁は社団的運営が望ましいと主張したと回想しています。社団法人の運営は「社員総会」の多数決で決定するものですから、神社連盟案と同じ下からの選出です。その考えは神社本庁はできてからも変わらず、将来的に財団法人制度が整理されたら「国家ノ宗祀」という自負のある神宮・神社は宗教法人をやめるべきだと主張しています。

宗教法人を脱して「祭祀目的の財団法人」になったがよいと思ふし、本庁は社団となるべきだ

このように葦津珍彦は昭和58年の時点でも神社本庁は社団的運営が望ましいと考えていたのです。葦津珍彦の考えに基づくのであれば神社本庁の総長選出方法は①(責任役員の多数決)ということになります。換言すれば、統理の指名権は葦津珍彦の考えと相反します。

神社は宗教法人であるべきではない

宗教法人よりも財団法人の方が神社に適していると葦津が考えた理由はいくつかありますが、一番大きいのは責任役員の多数決で御祭神すら変更できる宗教法人よりも、設立当初の目的が重視される財団法人の方がよいという点にあります。

このように述べると「葦津珍彦も宗教法人法に不服を言っているじゃないか」と考える人がいるかもしれませんが、宗教法人としての特権を享受しながら宗教法人法には抵抗すべきだなんて葦津珍彦は言っていません。神社は宗教法人をやめて財団法人になるべきだと言っているのです。だから「宗教法人ではなく、宗教団体として」というロジックを主張したいのであれば、さっさと宗教法人としての特権を手放して宗教団体か財団法人になればいいのです。何より宗教法人の特権を手放さないまま、宗教法人法に従いたくないと主張することを容認するほど社会は甘くありません。

宗教法人に対する税制上の恩典に対して不満をもつ国民も少なくありませんし、昨今の宗教に対する社会的信用の低下から宗教法人のコンプライアンスはより厳正化を迫られています。神社本庁の総長の座をめぐる議論で私が気になるのは、宗教界全体が直面している社会的信用の急落に対する危機意識に乏しいという点です。

神社神道が日本社会において歴史と伝統のある宗教であり、神社が日本社会の精神的基盤であるという自負があるのであれば、宗教法人法を厳正化して社会の信用を取り戻しましょうと他の宗教法人や宗教団体に対して呼びかけるべきではないでしょうか?少なくとも今の社会風潮のなかで宗教法人法は気に入らないと主張するのは、宗教法人・宗教団体にとって悪手でしかありません。

創設時への回帰

葦津珍彦にとって創設時の神社本庁神道指令を乗り越えるための「暫定制度」でした。葦津は日本が主権を回復した時点で神社制度の抜本的な建て直しを構想していました。しかし、そのためには全ての神社・神職が大きな代償を支払う必要があり、さらに様々な逆風により実現しませんでした。

したがって「創設時の神社本庁が理想であり、そこに戻るべきだ」と主張する時点で葦津の理想とは異なります。葦津の志を継承するのであれば、宗教法人法という枠組みのなかで神社の「国家ノ宗祀」としての性質を発揮する方法を模索するか、宗教法人を脱し財団法人になって「国家ノ宗祀」たることを目指すか、いずれにせよ創設時と現状の否定から始めないといけません。

加えて言うならば、神道指令が発令された時代と令和の時代は状況が異なるのですから、過去に回帰すれば神社界が再びかつての栄光を取り戻すなんてことはありません。過去を継承しながら、少しでも良い神社界になるように令和の時代に即した神社・神社本庁の在り方を提示する。それがこれからの神社界の指導者に求められることです。

神社界にも神社本庁が「暫定制度」であることを理解している人も少なからずいますが、内部からストレートに創設時を否定することにためらいがあるのか、神社新報などでは「創設時の理念」(創設時の状態に戻すのではなく、暫定制度から次の段階へ進もうとしていた昭和30年代の先人の熱情を取り戻そうという意味)などと回りくどい表現を使うことが多いように見受けられます。神職らしい奥ゆかしさからくる行間を読んでくれということなのでしょうが、ストレートな表現を用いないと大きな運動は起こせません。

葦津珍彦の再評価を

葦津珍彦を知らない神職も増えています。神社本庁としても「神社本庁にとって葦津珍彦とは如何なる存在か」についてきちんと整理し、周知すべき時期に来ているのではないでしょうか?