神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

冗長な質問やコメントをしないために

はじめに

今回は一般向けの学術シンポジウムなどだと、慣れていないせいか冗長な質問や的外れなコメントが寄せられることがあります。今回は、そういう質問やコメントをしないためには、どういう点に注意すべきか、自戒の意味も込めてまとめてみました。

①自分ガタリ

質問とは直接関係のない自分の苦労話を何分もして、最後の10秒で質問を述べるような人が多く見られます。

例えば、発表者がレジュメに出典を書き忘れたとしましょう。それに対する質問が

〇〇です。先生のお話をきいて非常に感銘を受けました。私は〇〇県の出身なのですが、その地域に夜祭があって、子どものときはよく家族と一緒にお参りしたのですが、とても幻想的だった思い出があります。そうしたこともあって趣味で夜祭について研究をしている訳なんですけど、なかなか良い資料が見つからずに苦労しています。それで本日の御発表でご紹介された古文書はに興味をもちました。読んでいて子どもの時を思い出しました。夜祭の幻想な雰囲気がよく表現されていると思います。それで「この資料の出典は何でしょうか?」教えて下さい。

例文なので短くしたつもりです。実際にはこれより長いのが多いです。

「この資料の出典は何ですか?」という質問をするだけなのに、不要な自分語りを延々としてしまっている。好きなテーマで思い入れがあるのはわかりますし、時間をつくって参加していることもわかりますが、あなただけのシンポジウムではありません。他の参加者も同じかそれ以上の意気込みで参加しています。質問時間は無限ではないので、自分の質問が長くなればそれだけ他の人の質問時間を奪うことになります。簡潔に要点だけを質問すべきでしょう。

ネット上のコメントでも簡潔にまとめる方が読み手も読みやすいでしょう。長い文章のわりに内容が薄いケースが少なくありません。自分の主張・質問を簡潔に述べる能力はネット社会においてますます需要が高まると思います。

②いらない前置き

質問の前に「本日は聞くだけで質問するつもりはありませんでしたが」などとわざわざ言ってくる人がいますが、時間の無駄でしかありません。周りで聞いていると「だったら質問しなければいいのに」としか思えませんので、さっそく本題に入った方がいいでしょう。

③専門家の研究会なのにあまりにも基本的な質問

次はどういう集まりなのかをよく考えて参加すべきという問題です。

  • 素人向けに専門家が説明してくれる場
  • 基本的な知識のある人が集まって議論をする場

この区別を間違えると周囲に迷惑をかけることがあります。

基本的な知識のある人が集まって議論をする場に、素人が参加して基本的な知識を延々と質問すると、それに時間をとられて議論ができずに終わってしまうということになってしまいます。

司会が「基本資料を読んで出直してこい」とバッサリ言ってくれるといいのですが、押しの強い質問者に負けて、他の参加者にとっては時間の浪費でしかない質問が続くということはよくあります。

基本的な説明に時間を取られて本来やりたかった深い議論ができずに終わるということは主催者や他の参加者にとって迷惑でしかないので、どういう人を対象にしているのか、基本知識を求められる集まりなのか、は事前にチェックしておく必要があります。

④発言の一部を切り取って批判する

とある歴史学者が「戊辰戦争でいわゆる「賊軍」とされた人たちのうち、靖國神社に合祀されなくても叙位叙勲によって名誉回復した人もある」と述べました。

この歴史学者は「賊軍」と誹謗中傷する意図はなく、説明する上で使用する必要があっただけです。しかも「いわゆる」という前置きをわざわざ付けています。そもそも「賊軍」とされた人の名誉回復につながる発表をしている。

にもかかわらず、「賊軍という言葉をつかうとは何ごとだ」と食ってかかる参加者がいました。これは完全に文脈が読めていません。心情的にはわからなくもないのですが、この質問者の出身地の藩主がまさしく靖國神社に祀られてはいないものの叙位叙勲によって名誉は回復している人であり、質問者の味方であるはずの歴史学者を敵として攻撃しているという状態は悪い冗談かと思いました。

国家神道」や「A級戦犯」と括弧で囲んだりするのも、「いわゆる」を付けるのと同じ意味です。そもそも会話でもないのにカギ括弧で囲んであるのは、何か意図があるわけで、「なんでここにカギ括弧があるの?」と疑問に思って考えた方がいいです。

⑤主語や目的語が大きくなる

自分の個人的な意見をまるで業界を代表した意見であるかのように発表する人がいます。「われわれ歴史学者は〇〇と考える」というようなパターンですね。「あなたは歴史学者の代表ですか?その意見は学会で決議でもしたんですか?」とツッコミたくなります。

また神道学者Aが講演しているのに、神道学者Bの学説に対する異議や質問をしてくる人がいる。Aにしてみれば「それはBさんに聞いてくれ」としか言えない。同じ分野の研究者だって見解の相違がある訳で、Aに対する質問はAにする、Bに対する批判はBにする。当たり前のことですが、意外にできていない人が多い。

⑥誤読と歪曲

講師の発言を誤解したり、発言を歪曲して批判するというケースも稀にあります。

このブログに対するコメントにも、このケースが多く見られます。

例えば、このブログに神職を名乗るなというコメントが寄せられましたが、私が名乗っているのは「神道研究者」です。わかりきったことですが、神道研究者と神職は別ものです。神職でありながら研究者でもある人もいますが全体から見れば少数派です。これは完全な誤読ですね。

また言っていないことで批判されるという訳のわからないこともあります。このブログのコメントでも私が書いたことのない言葉を根拠に非難されたこともあります。例えば神職の立場にありながら死にたいとか公言するのは神社界のイメージダウンだ、なんてコメントもありましたが、私は「死にたい」とブログで書いていませんし、むしろ長生きしたいと健康法をいろいろ試しているくらいです。

また信念の異なる人を非国民と批判するなというコメントもありましたが、私はこのブログで「非国民」というワードを使用したことはありません。念のために検索をかけて確認しましたが「死にたい」とか「非国民」というワードは私のブログにはありませんでした。

事実誤認または歪曲に基づいた批判が百害あって一利なしなのはいうまでもありません。

素人質問ですが

学会発表において「素人質問ですが」と前置きしてから質問する人がいます。

それも大学教授など明らかに素人じゃない人が大学院生の発表に対して「素人質問で恐縮ですが・・・」と質問してくるというもので、素人ではないのに嫌味で言っていると解釈する人もいます。

しかしながら学問は奥深く、研究が進むほどにわからないことが増え、どんどん細分化していきます。だから一流の研究者ほど謙虚です。だから、例えば戦国時代の一流の歴史学者が、平安時代の歴史について「私は素人」と言うのは決して不自然ではないのです。大学院生の方も「相手は教授だから」ではなく、自分は平安時代を専攻しているのだから、平安時代の古文書や論文をひたすら読んでいる(のが当たり前)、その読書量は戦国時代の大学教授を上回っていなければならない、位の覚悟がないと研究者として講師、准教授を目指すのは厳しいものがあります。

また発表者の指導教授に対する遠慮もあるでしょう。

このように「素人質問ですが」は、一人前の研究者が関連分野について質問する時に学者特有の配慮から枕詞として使用することがある特殊なフレーズです。

本当の素人が「わからないけど、こんな簡単な質問していいかわからない」というときは、変な前置きはせずに「これから勉強したいのですが、どういう本が入門書としていいでしょうか?」という風にストレートな聞き方をするか、他の人に貴重な質問時間を譲り、あとで自分で検索するなどした方がいいでしょう。

質問力・コメント力

質問やコメントはされる側だけが試されるのではなく、する側も試されています。学会で的外れな質問をすれば「この人の論文はすごいと思ったけど、専門以外は知らないんだな」と評価を下げることもあります。

私が心掛けているのは、相手のよいところを引き出し、研究がさらに深まるような質問です。的確で、相手の面子をつぶすことなく、それでいて誤りがあれば訂正し、参加者全員にとって意義のあるような議論へと誘導する。そういう質問やコメントをする先生が何人かおられ、自分もそのようになりたいと思っています。

以上、自戒の意味も込めて質問とコメントについて卑見を述べました。