神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

郷土史家・在野研究者の功罪

郵便局で怒鳴り散らす「大先生」

先日のことだが、郵便局で怒鳴り散らす70代くらいの男性がいた。話を聞いていると次のような用件だった。

  • 昭和30年ごろに特殊な仕事をしていた住民がいた
  • そのことを郷土史に書き残してやりたいが、あだ名しかわからない
  • 家族は転居しており、近隣住民も知らない
  • 郵便局で昭和30年の名簿を見せてほしい
  • 郵便局の回答は「古い台帳はない」だった

どこかで見た顔だなと思ったら地元で講演したりしている自称「郷土史家」の大先生だった。

最後に「どうして名簿を保管していないんだ」と郵便局員に怒鳴っていたが、史料を探すのも研究の一環である

研究者が史料を探す苦労をするのは当たり前のことであって、一生かけて探してもほしい史料が見つからないということだってある。だから郵便局に問い合わせて、ほしい資料がなかったくらいで激昂していては研究者はつとまらない。

この大先生は資料探しの苦労をしたことがないのだろう。

そもそも配達業務のための情報なのだから、史料があったとしても大先生が自由に閲覧できるとはかぎらない。それが昭和30年代だとしても、同じ住所に子孫が住んでいる可能性があるのだから、勝手に閲覧されることを不快に思う住民はいるだろう。

ここまで書いて、ひょっとしたら郵便局は持っていたが、見せたくないから「ない」と言ったのかもしれないという可能性に気がついた。

いずれにせよ、郵便局がはっきりと断りながらも真摯に対応していた姿勢に、利用者の一人として好感がもてたのがせめてもの救いである。

郷土史家の真骨頂

一言で「郷土史家」といっても大学で教鞭を執れるレベルの人もいれば、研究者と呼び難いレベルの人もいる。

郷土史研究は大学の研究者が見落としがちなローカルな史料を丹念に読み込み、貴重史料の収集と保護につとめるところに意義ある。

その最たるものは、諏訪の伊藤富雄であろう。あるとき宮地直一(東京帝国大学教授もつとめた神社史研究の第一人者)が諏訪大社(当時は諏訪神社)におもむき、古文書を読もうとした。しかし、くずし字がなかなか読めなかった。そんなときにスラスラと読んで見せたのが地元の伊藤富雄であった。彼は家庭の事情で中学(今の高校)を中退せざるを得なかったが、農業を営みながら、古文書の読解をライフワークとしていた。永年の苦労の末、古文書の読解に成功していたのである。

このように地道に地元の史料にあたるのが郷土史研究の真骨頂である。

郷土史家・在野研究者が陥りやすい状態

たしかに諏訪の古文書を読むことなら伊藤は宮地に勝つことができるが、神道全般の知識、他の神社との比較、論文にまとめる能力は宮地の圧勝である。

大学の研究者は指導教授から基礎を叩き込まれ、学会で批判されながら成長し、幅広い関連研究を読まねばならない。

しかし、郷土史家の中には我流でやっていて研究の基礎ができていない人もいる。仲間うちの研究会しかやっていないと鋭い批判を受けることがない。基礎を叩き込まれることもなく、批判も受けずにきた郷土史家は特定の地域には詳しいが他の地域との比較ができていない、読んでおくべき先行研究を見ていない、参考文献を示さないなどの研究者として致命的な失敗をしやすい。

本来、こういう問題を解決するためにゼミや学会発表がある。研究発表とは「これだけ素晴らしい研究をしてます」という自慢大会ではない。他の研究者から鋭い批判をもらうことで、自分の研究の弱点を徹底的にたたき直してもらうためのものである。鋭い批判に心が折れることもある。発表のあとは批判を浴びることにビクビクする。こんな研究に意味はないと全否定されることもある。しかし、これらを乗り越えずして研究者としての成長はない。

しかも、何十年やっても、研究発表の緊張感はなくなることはない。大御所でも若手が論戦をいどまれて論破されたらそれまでである。学問の世界は実力主義である。

大学の研究者は学会で研究発表をしないと周囲から注意される。しかし、郷土史家は仲間うちの雑誌に寄稿し、仲間うちで講演するだけで済まされる。メンバーは郷土史研究会の人間関係を壊したくないと鋭い批判を控える。そうして批判を受ける機会を失ったままになってしまう。

このような在野の研究者に対し大学の研究者が適切な助言をしてあげればいいのではと思う人もいるかもしれない。しかし、大学の研究者もそんな面倒なことをしたくない。

https://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/qanda.htm##1

つまり、郷土史家は大学の研究者より批判されずに済むので「裸の王様」になりやすいのである。だから本物の郷土史家は自身を批判してくれる学会に積極的に参加する。

郷土史家をもちあげる自治

大量の古文書があって、整理しきれない自治体は少なくない。江戸時代の手紙や日記が未整理なまま段ボールに入れられて倉庫に押し込まれているということもある。

自治体史の書籍はほとんどの自治体で刊行されているが、定期的に歴史に関する冊子や観光用のパンフレットをつくる必要がある。

自治体の博物館の職員や文化財に関する部署の職員はすでに手一杯であり、そうした仕事を追加で引き受けることはできない。かといって新たに専門知識をもった職員を雇う予算はない。

大学の研究者に委託したくとも、よほど価値の高い(その研究者の大発見になるような)ものでないかぎり引き受けてくれない。

そこで白羽の矢が郷土史家にたつことになる。ボランティアでやってくれる郷土史家は行政にとって都合がいい。自治体の職員から先生と呼ばれ、史料をもってきてもらうようになるので冒頭の大先生のように「史料を出せ。俺を誰だとおもっている」という態度の郷土史家が現れるようになる。

この関係には学問的な問題がある。というのも郷土史家が史料を誤読してもチェックできる人がいないのである。だから自治体の刊行物には学問的に見ておかしいと思える説が掲載される。本人は行政の刊行物に掲載されたので自説にさらに自信をもつ。こうして誤った歴史が流布されることになる。

他の研究者が指摘すると批判され慣れていない「裸の王様」は激昂し、自治体の職員も大先生を怒らさないでくれと嘆願するか、自治体の刊行物を否定するなという態度で検証も修正もなされない。

大先生が生んだ冤罪

郵便局で激高していた大先生は歴史研究者として冤罪をおこしている。

この地域には丘があり、そこを切り開いて道路が通っている。この丘について、大先生は古墳だと主張し、古墳を道路にした土地所有者(故人)を文化の破壊者と批判し続けている。

しかしながら、この丘が古墳だと行政・学会によって認められている訳ではない。大先生の根拠は丘の付近に「塚」という地名があるということだけである。しかも道路の開通前に埋蔵物の調査をして問題ないと確認されている。

さらに土地所有者は道路開通前に反対運動をしている。この反対運動は記録が残っている。つまり研究の基本中の基本である「関係史料は一通り目を通す」をやらずに、丘を守ろうとした人物を丘を破壊した人物として誹謗中傷しているのである。

当時、丘を迂回する案もあった。しかし、迂回させると急カーブになり交通事故の危険性が高まり、さらに通学路を横切ることになるという理由から住民の大半は丘を切り開く案を支持した。現在のルートでの道路開通は住民の多数意見だったのである。

土地所有者が反対した理由は、その丘の頂上に祠があり、それを守ろうとしたからであって、その要望は一部受け入れられて祠は移転しない形での道路開通となった。そして祠は所有者の子孫によって祠は守られている。しかも地元の史跡の保存事業に多額の寄付もしている。文化の破壊者どころか文化の守り手なのである。

事実をよく調査もせず、死者を断罪するのは歴史研究をする者としてあるまじき行為である。死者にだって名誉はある。そして死んだ人は反論することができない。だから研究者は死者の毀誉褒貶を論じるときは徹底的に調べた上で論述すべきである。

このケースは大先生の完全な調査不足であり、他にも基本的な研究手順が踏まれていない点が見受けられるので、私は彼を「歴史研究者」として認めることができない。

研究者の条件

テレビ番組にコメンテーターとして出演する「〇〇学者」や「〇〇研究家」にもいえることだが、やはり「学者」や「研究者」を名乗る以上、定期的に学術論文を発表すべきである。

ここでいう学術論文とは仲間内で出版する雑誌への投稿ではなく、査読つき、大学や研究機関が編集刊行するなど「学術雑誌」と学界において認められているものをいう。

学術論文を発表し続け、学会発表での質疑や査読など他の研究者からの検証や批評に常に晒されることが「研究者」の最低条件である

あと、テレビのコメンテーターは自分の専門外について何を根拠に語っているのか疑問である。専門分野ですら断言するためには相当な調査を要する。専門外のことは怖くて語れないというのが研究者だと思う。

本当の郷土史

行政による古文書の保護には限界がある。郷土史家がいなければ郷土史を守ることはできない。全ての研究者が大学教員や博物館職員として食べて行けるわけではないので、他の職業をしながら研究を進める在野研究者もいないと学術研究は停滞する。

学術研究の発展のために郷土史家や在野研究者は不可欠な存在なのである。

にもかかわらず、一部の「裸の王様」になった郷土史家によって郷土史家や在野研究者の評価(特に学問成果への信憑性)が下がってしまっているのは非常に悔しい次第である。