神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

花菖蒲ノ會の路線だと神社はどうなるのか?

世俗法を重視してきた神社神道

戦前の神社は内務省の所管する公法人であるため、内務省に陳情することはあっても法令は遵守してきました。三条教憲にも「朝旨遵守」が明記されています。「朝旨」とは「朝廷の意向」の意味であり、要するに国家の意向(=法令・通達)を遵守するということです。

戦後の神社本庁においても宗教法人令・宗教法人法に則って運営されてきました。

少なくとも戦前戦後を通じて、神社の信仰のためなら法律を無視してもよいという主張はしませんでした。

宗教の世界では「国家が定める法令」である「世俗法」(王法)に対し、「教義など宗教上のルール」である「教会法」(仏法)があります。世界の宗教を見ると両者が対立することもありました。例えば、仏教において「即身成仏」は尊い宗教行為ですが、明治時代に法令で禁止されています。これは即身成仏という宗教上の教えに対し、国家が世俗法によって「今後は即身成仏をやってはいけないよ」と制限を課し、教団がそれを守っているという状態です。

では神道の世俗法に対する基本姿勢はどうかというと、上記の通り、世俗法を遵守しながら、その範囲内において信仰を護持してきたのが神社神道の歴史です

しかし、その基本が破られようとしています。

花菖蒲ノ會における世俗法の軽視

『花菖蒲ノ會』会報第8号|自浄.jp(令和5年1月25日)において、前田孝和氏は次のように述べています。

庁規より上位にある宗教団体として最高法規である神社本庁憲章と、宗教法人法下における庁規は、法律的にいづれに優位性があるのか、である。

改めて、そもそも神社本庁憲章とは何かを考えてみましょう。

神社本庁憲章の前文には次のように書かれています。

爾来、神社本庁は、全国神社の包括法人として、庁規を中心に運営されてきたが、今 日まで重要な懸案とされてきたのは、精神的統合の紐帯として、基本的規範を確立整備することであった。 よって、ここにその大綱を成文化して本憲章を制定し、以て神祇の祭祀を継承するに 遺憾なきを期するものである。

つまり神社本庁憲章とは神社本庁という宗教団体が独自に定めた「精神的統合の紐帯として」の「基本的規範」(=精神的規範)なのであり、第三者から見れば教義・教典に相当するものです。

少なくとも所轄庁の認証を経た「庁規」と違い、行政に届け出ていません。

したがって前田氏の主張は「 宗教法人法によって定めた規則」(世俗法)に対し、神社界が独自に定めた憲章を優先させるべきというものです。

言い換えれば、法律よりも教義を優先させるべきと言っているようなものです。

宗教上の問題を解決する時に「教義に基づいて判断しろ」と主張するのは問題ないでしょうが、今回のケースは宗教法人法下にある庁規の解釈、宗教法人の代表役員選出という法律的な問題であって、法律的な問題を解決する時に法律や法律に基づく規則ではなく、教義に基づいて判断しろと主張するのは間違いです。

現在は、宗教団体・宗教法人のコンプライアンス遵守が強く求められている時代です。そうした時代の流れに逆行する主張であり、神社神道の伝統にも合致しません。少なくとも三条教憲には明確に反していますね。

花菖蒲ノ會の路線

花菖蒲ノ會は総長指名権を統理に持たせることを主張しています。

評議員会で選出された役員による多数決よりも統理の判断が重いという考え方です。

統理の意向に合致する代表役員を指名することができる訳ですし、丹治正博福島県神社庁長の主張を見れば、神社本庁という教団は統理の意のままに運営されるのが正しいという考え方が花菖蒲ノ會とその支持者の根底にあることがわかります。

それに世俗法よりも教団の精神的規範を優先する姿勢が追加されることになります。

以上を踏まえて、客観的に花菖蒲ノ會の主張を見ていくと、神社本庁を「宗教的トップの意のままに運営されて法律よりも教義を優先する教団」にしていくという路線だと思わざるを得ません。

現代社会が求めている宗教法人運営は、「民主的な合議による運営」、「コンプライアンス重視」だと思うのですが如何でしょうか?

花菖蒲ノ會の自己矛盾

花菖蒲ノ會は統理を支えることを目的としている団体のはずですが、統理の意向を批判している時があります。

例えば、前田氏は以下のように庁規の判断を司法ではなく、評議員会ですべきと主張しています。岡山県神社庁も同様の主張をしていました。

神社本庁の本質、すなわち設立主旨、それに基づく精神的規範であり、宗教団体神社本庁の最高規範である神社本庁憲章の理念を、そして神社本庁憲章が定める統理の権限の法的範囲を、裁判所の判断に委ね、それに従うことだけでよいのか。それは神社本庁の構成員である神社に関わる神社総代、責任役員、神職などが議論して、歴史を顧みて将来の行く末を案じて、神社本庁の最高議決機関である評議員会が判断すべきことではないのか。

しかしながら、「令和4年10月評議員会冒頭の統理挨拶」において、

私は、六月二十三日の役員会に際し、仮処分についての裁判所の判断を待つといふことを申し上げましたが

『花菖蒲ノ會』会報第5号|自浄.jp(令和4年10月17日)

と明言しています。

つまり裁判所の判断を待つというのは統理の決断なのであり、前田氏は統理の判断を批判していることになります。さらに言うならば、東京地裁での訴訟は芦原高穂氏が原告ですので、芦原氏の判断も批判していることになります。

ついでに前田氏は神社本庁憲章を「精神的規範」と認めてしまっていますね。「統理の権限」という表現も使われています。

全く言及されない問題

花菖蒲ノ會は、神社本庁は統理主導の組織であるのが本来の在り方だと主張するばかりで、統理主導でどうしたいのかというビジョンが語られません。

  • 少子化・過疎化によって氏子が減って護持の難しい神社をどうするのか?
  • キャッシュレスの賽銭はいいの?
  • 宗教そのものに対する社会的信用の低下のなか神社はどうあるべきか?

など神社の教学的問題は山積しているはずですが、それらについて言及がありません。

田中氏の場合、前期までに活動指針を示していますので、その路線を基本的には継続するのだということはわかるのですが、花菖蒲ノ會の公約は全く見えてきません。