暇空茜氏の「認知プロファイリング」
令和4年11月からネット上で話題となっている人物に暇空茜(ひまそらあかね)という人物がいます。
彼の主張がどのようなもので、どのような話題なのかはYOUTUBEで検索してみて下さい。
彼は「認知プロファイリング」という技術を駆使して鋭い指摘をしてきました。「認知プロファイリング」は彼の造語であり、その概要は以下の通りです。
まあやってることは”文章探偵”とでも呼ぶべきもので、相手がどんな言い回しを使うか、それは正しい情報なのか?間違ってるなら何故そんな間違いになるのか?とか、様々な読み取れた情報から答えを導くという、それ以前にあったもので言うなら、推理に近いと思う。
インターネットについて⑤認知プロファイリングという技能|暇な空白|note
上の文章では「文章」に限定していますが、実際にはSNSの写真などから相手の主張の矛盾(他人のSNSから無断借用した写真を自分で撮影したとアップしている等)を指摘しています。つまり相手が発信するあらゆる情報を総合的に分析し、情報の正否、相手の意図を推理する技術ということですね。彼のnoteを読んでいると、まるで名探偵の推理を聞かされているような錯覚に陥ります。
「認知プロファイリング」は彼の造語ですが、似たような技能は昔からありました。
例えば、古文書に書いてある内容を文字通りに信じる歴史研究者はいません。公家の日記には事実誤認や自己弁護があり、大名が送る手紙には相手を誘導する意図がある。それを「眼光紙背に徹す」、「行間を読む」ことで、直接文章に書かれていない執筆者の意図を汲み取ることが研究者には求められます。
従って暇空茜の「認知プロファイリング」は「行間を読む」能力の発展系であり、怪しげなものではありません。ただ彼の「認知プロファイリング」は一般的な「行間を読む」読解力よりも高いレベルの洞察や推論であり、それを自在につかいこなしている彼の才幹はすごいと思います。
知的興奮を覚えたので、今回は「認知プロファイリング」を猿真似してみたいと思います。
自浄.jpの主張の違和感
「神社本庁の自浄を願う会」の主張に下記のようなものがあります。
福島県神社庁報「今、我々は諍いをしている場合であろうか~本庁の総長選任をめぐる混乱の問題点~」|自浄.jp
なお、「田中なお在任総長」を支える小林一朗評議員(埼玉県神社庁副庁長)、北山秀彦評議員会議長(千葉県神社庁長)、吉川通泰理事(広島県神社庁長)は、神道青年全国協議会(神青協)の会長経験者で、小野貴嗣常務理事(東京都神社庁長)も当時の神青協全国理事である。
さて、この文章を読んで「田中恆清を支えている人は青年会時代からのオトモダチなんだな。オトモダチだから情で助けているだけなんだな」と読解した人は文章の表面しか読めていません。
この文章を読み解くには少し知識が必要となります。
【昭和58~59年】
会長 田中恆清、副会長 小林一朗
【昭和60~61年】
会長 小林一朗、地区理事 北山秀彦・小野貴嗣、指名理事 吉川通泰
【昭和62~63年】
会長 北山秀彦
【平成元~2年】
副会長 吉川通泰、地区理事 西高辻信良
【平成3~4年】
会長 吉川通泰、副会長 西高辻信良、地区理事 芦原高穂、丹治正博
【平成5~6年】
会長 西高辻信良、副会長 丹治正博、監事 芦原高穂
どうでしょうか? 統理から副総長にと名前が挙がっている西高辻信良氏も会長経験者であり、芦原高穂氏も役員を2期経験していますし、福島県神社庁長の丹治正博氏も副会長経験者です。しかし、彼らの名前は挙げられていません。
では自浄.jpの執筆者は、西高辻氏、芦原氏、丹治氏が神道青年全国協議会の役員をしていたことを知らないのでしょうか?
そんなことありえないでしょう。芦原氏と西高辻氏を総長・副総長に推している団体が、田中氏が神青協会長をやっていたということだけ知っていて、自分たちが推薦している2人の経歴を知らないはずはありません。
さらに注意深く観察すると、役員の時期も微妙にズレています。
このように自浄.jpの主張は論理的に矛盾しており、「田中・小林・吉川・北山・小野の5氏だけ名前を挙げて、芦原・西高辻・丹治の3氏の名前を挙げないのはなぜ?」という疑問がわきます。
その矛盾に気づき、「なぜ?」を推理していくことが、行間を読む第一歩です。
しょせんは猿真似なので、私なりの「認知プロファイリング」はここまでとします。
しかし少なくとも田中・𠮷川・北山・小林・小野の5氏を「青年会のオトモダチ」と論じるのには無理があるのはご理解いただけたと思います。
福島県神社庁報の読後評
併せ丹治正博庁長の文章も分析したいと思います。
今、我々は諍いをしている場合であろうか ~本庁の総長選任をめぐる混乱の問題点~ | 福島県神社庁
この考え方は、「神社本庁憲章」の「庁規」に対する優位性を無視、または否定するもので、我々神社人には到底容認出来るものではない。
この点については、岡山県神社庁庁報でも指摘しましたが、憲章を庁規の上位とするのは神社界内部では通用しますが、社会では通用しません。なぜなら憲章は認証を受けていないからです。
所轄庁(文部科学省、都道府県)から見れば神社本庁憲章は届出のない神社本庁の内部ルールです。認証された規則より無届けで制定した内部ルールを優先し始めたら、宗教法人のやりたい放題になって社会は混乱します。
宗教法人は所轄庁の認証をうけた規則に基づき運営されないといけないのであり、規則の上位規範は宗教法人法です。神社本庁憲章は精神的な規範にはなるでしょうが、認証を受けていないものを法規範として採用するのは不適切です。
宗教法人として活動する以上、認証された規則を最大限尊重すべきです。
責任がないなら指揮権もない
裁判所の判断が役員会の決定を支持するとするならば、神社本庁が統理の指揮下で全ての業務を遂行してきたという被包括宗教団体成立以来の事実及び慣習を否定することになり、そうであるならば、逆に全ての業務は総長及び役員会の指揮下で行われてきた事を証明すべきと考える。
この点について裁判所は、統理が責任を負わないとあり、役員会の責任において全ての業務が行われていることをきちんと論証しています。
逆に、統理の指揮によって全ての業務が行われてきたという証拠は提示されていません。
相手に証拠を求める前に自分の主張の論拠を示すべきでしょう。
疑いをもたれたら辞職?
また次のように述べていますが、神話をみるかぎり疑われたら身の潔白を証明する事例が多く見られます。
地位にあるものは一点の疑いでも持たれれば、潔くその地位を辞することが「恥」を重んじる我が国の国柄であり、神職こそがその体現者ではなかったのか。
例えば、冤罪をかけられた武内宿禰は盟神探湯で疑いを晴らしています。素戔嗚尊も「うけひ」で赤心を証明しました。
このように『古事記』と『日本書紀』において神々は疑われたら身の潔白を証明することに努めており、それに神習うのが神道的に正しいことはあきらかです。
したがって日本は冤罪をかけられて、泣き寝入りするような脆弱な国柄ではありません。恥を知るからこそ命がけで冤罪と戦うのが日本の国柄です。