神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

コメントについて

本ブログのコメントは「承認」制としています

本ブログに対するコメントは

①書き込む→②私が承認する→③ブログで誰でも見れるようになる

という設定になっています。

なぜ自動承認しないかというと、神社界のイメージを悪化させるような書き込みがあるからです。

論を戦わせることはあっても人格攻撃はしないのが作法

議論において相手の論理を攻撃することはあっても、相手の人格攻撃をしてはなりません。だから学問的な論争というのは「A教授はBだと主張しているが、古文書Cから考えて結論はDになるはずだ」という形になります。ここで攻撃の対象となっているのはBという主張であって、A教授そのものを攻撃している訳ではありません。「A教授は〇〇だからAの主張するBは間違いだ」というのは論理的な批判ではなく、対人論証という名の詭弁、ただの誹謗中傷です。

さて本ブログによせられて非表示にしてあるコメントには、「あなたは奉職先がほしいから本庁擁護をしているのだろう」とか、「卑劣な生き方」とかそういう私に対する人格攻撃が少なくありません。

ちなみに、コメントを下さった方々と私は面識がありません。勝手に私のイメージをつくりあげて、そのイメージに対し攻撃しているという状況です。もちろん私もコメントしている方々について知りません。しかしながら客観的に見た場合に、神社本庁問題の記事にコメントしているから神社関係者と想像される可能性が高い。

つまり第三者視点だと、神社関係者と思われる人物が知り合いでもない人に「卑劣な生き方」と人格攻撃をしているように見える訳ですよ。

神社関係者が人格攻撃のコメントを書き込んでいると世間に思われるのは神社や神道のイメージダウンでしかありません。私は神社のイメージダウンは避けたいと思っているので、人格攻撃のようなコメントを表示したくありません。かといって私の意見に賛同するコメントだけ表示するのは不公平なので、コメントはすべて非表示としております。

批判はご自由に

コメントを非表示にしておりますが、批判はご自由になさって下さい。

私のブログに対して異議があれば、ご自身のブログやSNSでご自由に「神道研究室というブログの主張は間違っている」と批判していただければいいのであり、本ブログのコメント欄だけが批判の場所ではありません。

ただ批判を見過ごす可能性があるので、私の回答をご希望であれば、本ブログのコメント欄にURLを書いて「ここで批判しているので読んでくれ」と一報していただけると助かります。

その批判に対し、私から反論があれば本ブログに掲載します。ただし下記に述べるような論理的な批判になっていないものには対応しません。

批判と反論のしかた

批判の中心は根拠

批判するなら「Cという根拠があるからAさんのBという主張は間違っている」という風に根拠が出発点になります。だから根拠がないと、その時点で批判としては失格です。

そして、Aの主張のどの部分が間違っているかを具体的に挙げないといけません。漠然と「Aはわかっていない」と批判するのは批判として未熟です。根拠をあげて、どの部分がどのように間違っているかを指摘できないといけません。

批判を受けたら修正or反論

自身の主張に対し批判を受けたら真偽を確認し、

  1. 相手の主張が正しいのであれば過ちを認めて自説を訂正する
  2. 相手の主張が間違っているのであれば、根拠とともに反論する

のいずれかをしないといけません。

この時も根拠が大事です。根拠を示すことが出来なければ、どんだけ「自分は正しい」と叫んでも論理的な反論になっていません。

自説が誤りだった時に潔く訂正できず、かといって自説が正しいという根拠を示すことも出来ず、別の方法で相手を倒そうとするのは正々堂々な議論とはとても言えません。

論理的な批判ができないから人格攻撃になる

相手を批判したいけど根拠がないから人格攻撃に走るのでしょう。レッテル貼りも同様です。「あいつはネトウヨ(or左翼)だから」という言い分は、同じ意見の仲間内では通用するかもしれませんが、根拠をあげて論理的に批判することを放棄してしまっているので討論の世界では負けを認めたも同然です。

訂正も反論しないところに大義はない

訂正も反論もせず、論点をすり替えたり、議論ではなく政治的な方法で相手を倒そうとすることには大義がありません。

例えば、社長が社員から正論で非を指摘されて「クビになりたくないならオレの意見に従え」と批判を潰すところに大義はありません。

宗教関係で多いのは権威で決しようとするケースでしょう。年長者・権威者にたてつくなと正論を押しつぶすことに大義はありません。

相手を理由Aで批判していたのに、Aに根拠がないことが証明されると理由Bを持ち出してBで批判し続けるところに大義はありません。

本庁問題の場合はどうだったか?

神社本庁の職舎売却で田中恆清氏らは背任疑惑をかけられました。

しかし、裁判所は背任行為は認められないという判断を下しました。

神社本庁職舎売却をめぐる背任疑惑を裁判所はどう判断したか - 神道研究室

この時点で田中氏の背任疑惑を批判していた人々は

  1. 背任行為の決定的証拠を提示する
  2. 背任行為があったという今までの主張を訂正する

のどちらかを選択し実行する必要がありました。

引き続き田中氏の疑惑を批判したいなら証拠が必要です。証拠がないなら訂正するしかありません。ただ今回のケースでは、田中氏は無実の罪で批判されていた冤罪被害者ということになりますので、道徳上、訂正するだけではなく、陳謝もセットで行う必要があります。無実の人を批判しておきながら謝罪しないというのは道徳的に褒められた態度ではないのは明らかです。

ところがネット上で田中氏に対する訂正・陳謝の投稿を見たことがありません。

コメントで「武士道論」についてご意見をいただきましたが、武士道精神に則るならば潔く訂正した上で、仕切り直しをしてから堂々と総長交代を議論すべきではないでしょうか?言い換えれば、訂正もせずに新たな口実で田中氏を批判し続けるのは武士道に反するでしょう。

訂正(田中氏の名誉を回復)した上で、総長交代の議論をはじめていたら状況は異なっていたと私は思います。

まとめ

上記理由でコメントはすべて非表示にしてあります。

この点は最初に述べておくべきでした。すでに書いていただいた方には申し訳ありませんでした。

ただコメントはすべて目を通しており、すべての閲覧して下さった方、コメントを書いて下さった方に感謝しております。