神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

『岡山県神社庁庁報』読後評

庁報

岡山県神社庁庁報』第134号(令和5年1月1日)掲載の「神社本庁総長決まらず 今、本庁で何が起こっているのか?」の主張について健全な宗教法人運営の観点から疑義があるので今回はそれを指摘していきます。

まず「庁報」というのは都道府県神社庁が発行している会報みたいなものです。年間の発行数や名称は都道府県によって違います。『岡山県神社庁庁報』第134号は、

神社本庁総長決まらず|自浄.jp

に掲載されているのでご覧ください。

宗教法人の規則は内部ルールではない

神社本庁総長決まらず」では、神社本庁「庁規」第12条第2項の「役員会の議を経て、理事のうちから統理が指名する」の解釈の判断を裁判所に委ねたことについて次のように述べています。

庁規の解釈は司法ではなく、最高議決機関である評議員会に於いて決するべき問題であろうが、現在の役員会は評議員会に諮ろうとしない。

一見するとこの主張は正しいように思えますが、神社本庁が宗教法人だということを忘れてしまっています。

宗教法人を設立するためには、「規則」をつくって所轄庁の認証をもらわないといけません。

「この規則で宗教法人として活動したいのですけどいいですか」と申請して認めてもらったから宗教法人になれたのです。

宗教法人の設立手続 | 文化庁

認証してもらった後で、「一般的にはこの用語はAという意味になるけど、うちの教団内ではBという意味だ」なんて宗教法人がやりはじめたら、所轄庁は宗教法人規則の文言一つ一つについてどういう意味なのか確認しないと認証できなくなります。

これは所轄庁だけではなく、宗教法人にとっても大きな損失です。

つまり宗教法人の規則は内部ルールではないのです。そして昭和27年に文部大臣に認証してもらった神社本庁の規則が「庁規」です。

内部ルールなら神社本庁内部で勝手に解釈を決めても問題はないでしょうが、認証を受けたあとになって「規則」の解釈を内部で勝手に決定・変更できるようになってしまうと宗教法人制度そのものの信用がなくなってしまいます。

規則を変更する場合も認証申請が必要になることから考えれば、宗教法人の規則、それも代表役員選出に関わる文言の解釈を「評議員会に於て決するべき問題」と言い切ってしまうのは、社会から規則を恣意的に運用していると批判されかねません。

特に今は宗教法人のコンプライアンスが問われています。社会の宗教法人に対する視線はますます厳しくなっていくでしょう。宗教法人が社会から信頼されたいのであれば、誰が読んでも意味がわかるような規則である必要があります。それこそが「透明性」でしょう。

以上から「議を経て」の解釈を司法に委ねた役員の判断は至当だと私は評価します。

 

多数決では透明性と公平性が担保できない?

また多数決により決め、強引に指名していただくことは統理様が危惧する透明性や公平性の担保にはならない

「担保にはならない」と断言していますが、なぜ担保にならないのかという説明が全くありません。

役員会で総長を議決するのであれば、誰がどういう理由で総長に推薦したか、それに対してどのような反対意見があったかなど選考の過程を議事録に残すことができます。

これに対し、統理による指名だけだと統理の脳内で完結するので議事録に選考理由が残りません。

議決した方が選出過程の透明性が担保されるのは明らかです。

そもそも宗教法人法は代表役員の選出方法は責任役員の互選でよいと定めています。

神社本庁の場合、「役員会の多数決」=「責任役員の互選」ですから、岡山県神社庁は宗教法人法第18条第2項に定められた互選では透明性や公平性が担保できないというお考えなのでしょうか?

【参照】宗教法人法第18条第2項「代表役員は、規則に別段の定がなければ、責任役員の互選によつて定める」

いずれにせよ、理由を説明せずに、透明性と公平性が担保できないと述べても論証にはなりません。

同様の意見はネット上でよく見かけるのですが、役員会の多数決より統理の決定の方が透明で公平であるという根拠を伴った意見にはお目にかかれていません。

余談

「統理様」という表現を多く見かけます。

「統理」は役職であり、「役職+様」というのは文法的におかしいと思うのですが、どうなんでしょうか?

一般企業では公的な場や文書で「社長様」などとは表現していません。

「役職+様」が神社本庁のルールだというのであれば「統理様」だけではなく、「総長様」、「理事様」、「参事様」、「宮司様」など全てに「様」をつけないとおかしいことになります。

どうも「統理様」という表現に違和感を禁じ得ません。