庁規93条
『花菖蒲ノ會』会報第21号|自浄.jpにおいて葦津敬之氏は次のように論じています。
統理の総長を指名する権限が理事(責任役員)による多数決に拘束されると、神社の法人事務に、聖なる統理の権限が及ばなくなり、責任役員の多数決のみで、当該神社の宮司の任免や財産処分がなされるといふ由々しき事態が起こりかねない。万一、責任役員に反社会的勢力が入り込んだ場合、統理の権限で神社を護持するための措置を取ることも出来なくなる。
この文章において「統理の聖なる権限」がどの規程に基づくものか明言されていませんが、前後の文脈からは神社本庁庁規93条の統理の承認を指すと思われます。統理の承認とは神社が名前(社号)を変更したり、境内地を移転・売却する場合、その神社の責任役員会だけでは決定できず、神社本庁統理の承認を得る必要がある規定です。
例えば、田舎の神社の境内地の上を高速道路を開通する計画があったとしましょう。その情報を事前に裏ルートで得た反社会的勢力が、氏子をだまし、あるいは脅して責任役員会を牛耳って神社境内を売却して、その利益を懐に入れようと画策したとしても、神社本庁が境内地の売却を承認しなければ悪だくみは成立しません。
このように庁規93条が定める「神社本庁統理の承認」というシステムには、宮司や責任役員会が暴走した場合にブレーキをかけるという機能があります。
しかしながら93条による承認システムも庁規40条5項の「統理のすべての行為は、総長の補佐を得て行はれるものとし、その責任は、役員会が負ふ」が適用されます。したがって、統理による承認とは統理の個人的判断ではなく、総長以下役職員(代々木にある神社本庁組織)が組織として下した判断を、形式的に統理の名を以て発令するものと解すのが妥当です。そのため統理が承認・非承認に対する批判を浴びたり、責任を追及されることはありません。なので93条の承認システムを「統理の聖なる権限」と評することは適切ではありません。
葦津氏の主張を「統理は総長の指名権と庁規93条によって間接的に神社を守る権限を行使しているのだ」と解釈するのも難しいです。なぜならば一度指名した総長を解任する権限について庁規にも憲章にも定められていないからです。それでは神社本庁という組織(総長以下の役職員)が統理の意に反する承認をしようとした場合に、統理にはなす術がありません。つまり指名される前は統理に従順なふりをして、指名された後は統理をないがしろにする人物だったケースを想定できていないのです。法令や規則は悪用される可能性を想定してつくるのが基本です。神社本庁がこうしたケースを想定せずに庁規を定めたのだとしたら、法人事務を扱う組織として資質を疑われます。
「統理の聖なる権限」が神社本庁憲章あるいは庁規の何条に基づくものなのか本文に記載がないため断定はできませんが、93条を直接行使する権限と解釈することは40条5項から考えて無理ですし、93条を総長を通じて間接的に行使する権限だと解釈した場合、40条5項および総長の解任権がないことから強い権限だとはいえません。
信仰上の問題の責任を負うのか
「聖なる権限」には聖なる(宗教上の)責任が伴いますし、「宗教団体としての」権限の行使には「宗教団体としての」責任が伴います。統理が神社本庁の信仰面において権限を有し、それを行使するのであれば、信仰上の責任も負うことになります。平たく言えば、その判断に対して批判があった場合、決定権者として矢面に立たざるを得ません。
例えばマスコミから「神社本庁は靖國神社のA級戦犯合祀についてどう思うか?」、「戦犯を神として祀るという行為は神道の伝統に則ったものと評価しているか?」、「上関原発への神社所有地売却承認は信仰的に正しかったと評価しているか」、「皇位継承は男系護持か女系容認か」など信仰上(宗教団体として)の見解を神社本庁が問われた場合どうなるでしょうか?
塩谷崇之氏の「総長選任をめぐる裁判の現況」にあるような
宗教団体としての神社本庁の重要事項については、世俗的な法人事務の決定とは異なり、役員会は議決機関ではなく、諮問機関として位置付けてをり、そもそも多数決による議決は予定されてゐないこと
といった見解(役員会が諮問機関に過ぎない)に立脚するのであれば、こうした質問に対しては統理が「聖なる権限」で回答し、それに対する批判を受けることになります。
役員会が実質的な決定権を有し、統理は実権を有しない形式的・象徴的な代表であるからこそ責任を追及されることもなく、批判を受けることもありません。しかし、「聖なる権限」が統理にあると仮定した場合、統理は神社本庁の下す神学的判断の責任を負うことになります。
このようなことを述べると「統理を批判するなんてとんでもない」と憤る神職が多数おられますが、それは神社界のロジックであって一般社会では通用しません。社会には「天皇制反対」を掲げる団体・個人すら多数存在するのですから、家柄や経歴が絶対無敵のバリヤーにならないことは明らかです。
庁規に基づいて双方の主張を見ますと、統理の権限を認めるべきと主張する人々よりも実権は役員会にあると主張している人々の方が、統理に一切の責任を負わせない、批判の矢面には立たせないと、統理(という職位)を徹底して守ろうとしていると評価できます。
40条5項から考えて神社本庁の基本姿勢は「統理に一切責任・批判を及ぼさない」ことであることは明らかです。それを踏まえて考えれば、「聖なる権限」もないと考えるのが妥当でしょう。