神社本庁がつくられた背景
神社本庁は昭和1946年2月3日に創設された宗教法人です。「庁」というのは事務を行う場という意味であり、官公庁ではありません。仏教教団でも組織の名前に「庁」を用いることがあります。
神社本庁は戦後の教団にはなりますが、千年以上の歴史を有する神社が加盟(宗教法人法では「包括関係」という)しているので単純に「新しい」とはいえないものがあります。
神社本庁がつくられた切っ掛けはGHQの神道指令です。GHQは「国家神道が戦争をひきおこした」と認識しており、国家と神社の関係を分断するつもりでした。神社にとって神道指令は「公法人から民間の宗教法人への移行すればいい」という単純なものではなく、神社が消滅する可能性がありました。例えば、国有境内地の問題があります。明治時代初期に政府は神社・寺院の境内地を官有地にし、さらに神社や寺院に無償で貸しているという状態にしました。これは神社や寺院が勝手に境内を売却しないようにするという良い点もありましたが、神道指令は国から援助を禁止していますので、無償で土地を借りれなくなります。そうすると神社・寺院は土地を購入するか、移転するしかありません。こうした危機的な状況を乗り切るためには全国の神社がまとまっていかないといけないということで設立されたのが神社本庁です。
【参考文献】大原康男『神道指令の研究』(原書房、1993年)
神社本庁のもとになった団体
神社本庁の前に全国神社の団体がなかった訳ではありません。公法人である神社を所管する役所として神祇院(その前は内務省神社局)がありました。この神祇院で行っていた最大の業務は神社の戸籍を管理することです。神様を祀る場所には個人の祠もあれば、公法人としての神社もあります。それらを区別するためには戸籍のような管理台帳が必要となり、明治時代に「神社明細帳」という台帳がつくられました。
しかし、神祇院は内務省の外局だったので神道指令により解体されることになりました。
そこで次の民間3団体が合併して、神道指令に対応することにしました。
この3団体が合併して、解体される神祇院の業務を継承し、神道指令に対応するために創設されたのが宗教法人「神社本庁」です。
なお神宮奉斎会の活動拠点だったのが東京大神宮です。それまで個人宅に親戚が集まって「高砂や~」とやっていた結婚式を、神前で儀式を行い(神前結婚式)、式場で披露宴を行うように発展させていった功労者が東京大神宮と神宮奉斎会です。
神社本庁の歴史的意義
発足当初の神社本庁の主たる業務は、
先に述べた国有境内地問題など神道指令に関連した事案に対応するためには行政と交渉せねばなりません。他にも神道指令によって廃止された祝日を復活させる紀元節復活運動なども神社本庁は行いました。そのため神社本庁の活動目的の中心は政治だと評する人もいますが、神社本庁の規則や業務の中心は神社の管理や神職の養成など神社を護持していくことにあります。そういう意味において、葦津珍彦を神社本庁の全てであるという先入観で神社本庁を考察すると本質を見誤るでしょう。
国有境内地処分に関しては、神社本庁の交渉もあって無償譲渡する法律が成立しました。いわゆる国有境内地処分法です。国有境内地が譲渡されなかったら、消滅した神社も発生したでしょうから、この法律を成立させただけでも神社本庁を創設した意義はあるでしょう。
【参考文献】藤生明『徹底検証 神社本庁』(筑摩書店、2018年)
國學院大學研究開発推進センター編『近代の神道と社会』(弘文堂、2020年)
なお神社本庁に伊勢派・出雲派があるというような情報をネットで散見しますが、神社本庁に伊勢派と出雲派は存在しません。伊勢派と出雲派というのは明治13年に神道事務局をつくったとき、その神殿に祀る祭神を巡って発生したものであり、明治14年に勅裁により解決したことで両派も解消しました。神社本庁設立に際し、伊勢神宮は「本宗」(本山末寺のような上下関係ではなく、全国神社の精神的な拠り所)と位置付けられ、出雲大社も神社本庁に加盟しています。
ただし神社本庁創設時に組織形態をめぐって、神社教案と神社連盟案で対立しました。
この点はまた別の機会に解説しようと思います。
このブログでは学術研究をベースに神社や神道について解説しています。
こういうテーマをやってほしいというご要望があればコメント下さい。