神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

神社本庁は右翼か?

神社が戦争をしたのか?

戦前において軍部や新聞が「日本は神国だから負けない」とプロパガンダし、政府から神社でも戦勝祈願するように指示がきて戦勝祈願をしました。

注意しないといけないのは、政府(軍部)が開戦を決定してから戦勝に協力しましたが、戦争をするという判断そのものにに内務省神社局や神職は関与していないということです。しかも戦争に協力したのは神社だけではなく、仏教をはじめとする諸団体も同じです。

しかしながらGHQは「国家神道」という危険思想・政治体制が戦争を起こしたとみなし、神道指令で解体しようとしました。

これに国内の文化人も追随し、宗教学者の村上重良は戦前の「国家神道」は超国家的パワーをもっていたと研究を発表しました。

村上の「国家神道」論が歴史的事実と異なっている点が多いことは、その後、葦津珍彦、阪本是丸、新田均などによって論証されています。

要するに、戦争に関する権限が一切なかった「神社神道」が、GHQにより「悪の根源」扱いされて批判を受けることになった訳です。それから自らを防衛するために設立したのが神社本庁という団体です。

 

神社本庁設立における葦津珍彦

神社本庁設立の中心人物は、吉田茂(総理大臣ではなく同姓同名の内務官僚、皇典講究所)、宮川宗徳(神宮奉斎会)、葦津珍彦(民間の神道家)です。

このうち戦後の神社本庁の理論面を担ったのが葦津珍彦(あしづ・うずひこ)です。葦津珍彦は福岡県の筥崎宮の社家の家系に生まれましたが、父の兄が神職になりましたので父は建築会社を経営しました。他の神職から見れば、宮司の弟で総代をしている建築会社の社長です。ただこの父がすごい信仰心の篤い人で、神職の資格ももっていて、知識もすさまじい。神職じゃないけど全国神職会の機関紙などに投稿してくるし、頭山満や今泉定介などの右翼・神道の大物とも交流がある。

そんな父のもとに生まれ育った珍彦ですが、若いころは社会主義に傾倒し、マルクスの著書も読破しましたが、皇室護持・神社護持と社会主義が両立しないと思い至り思想転向しました。要するに、神職じゃないし社会主義に傾倒したこともあったけど、社家の家系の出身というアイデンティティがあり、皇室と神社の護持のために尽力しようという人物だったのです。

彼は敬神尊皇をモットーにしていましたが、対米開戦は必ず負けると主張し発禁処分を受け、内務省神社局・神祇院の方針は無気力と批判するなど、戦前の体制をむしろ批判する側の人間でした。このように「敬神尊皇だが戦争には反対」という信条は成り立つのであり、神道指令に基づいて「敬神尊皇=戦争賛美」といった色眼鏡で戦中戦後を見ると事実を見誤ります。

 

彼は8月15日の時点から行動を開始しました。実は8月の時点で内務省も、全国の神職も敗戦で皇室制度や神社制度まで介入してこないだろうと安心しきっていました。宮務法が失効し、内務省が解体されるとは夢にも思っていなかったのです。しかし、葦津珍彦は「アメリカは皇室や神社に改革を迫ってくる」と予想していました。そして天皇の弁護士、神道の弁護士になる覚悟で行動を開始しました。

神祇院が解体となった場合に白山教や八幡教などと分派する可能性がありましたが、全国の神社が団結していった方が伝統的な信仰を護持できると神社本庁を設立することになりました。

 

この時に「神社教」と「神社連盟」という2つの案がありました。「神社教」は仏教のような教義を立ててトップダウンで運営していくので積極的に布教していくには有利です。これに対し、「神社連盟」は教義を立てないので、多様な神社が加盟することができます。葦津は全ての神社が加盟することが最優先課題とし、連盟案を主張。これが受け入れられて神社本庁が設立し、宮川宗徳が初代事務総長に就任しました。

 

葦津珍彦は設立までが自分の仕事であり、あとは一総代として皇室護持・神社護持に尽力するつもりでしたが、宮川から担いだ以上は最後まで責任を持てと乞われて、そのアドバイザー的立場になり、さらに神社新報社が設立されると実質的運営を任されるようになりました。

このように葦津珍彦には「神社本庁は俺がつくった」という傲慢さはなく、彼の口述記録などを見る限り、神社本庁に進言したけど採用されなかったことも少なくありません。そのため「葦津珍彦の理論=神社本庁の教学」とはいえません。

 

折口信夫との対立

折口信夫は敗戦に衝撃を受け、新しい神道の方向性を模索し、神職相手に講演をはじめていました。その新しい方向性とは、皇室との距離感を見直し、民間の一宗教として出直すというものでした。

これに対し、葦津珍彦らは敬神尊皇は一体不離であると主張し、神社本庁の中心を担っていた神職も同意したので、神社本庁は敬神と尊皇は一体であり、皇室護持・神社護持の方向性で活動していくことになりました。

折口と葦津との対立は方向性の違いであり、憎しみ合ってのものではありませんでした。また本庁の内部でも小野祖教と葦津珍彦では神学的な考え方が異なります。

このように神社本庁とは誰1人が神学を決めるのではなく、合議によって進められるものです。

 

神社本庁は右翼なのか?

神社本庁神道指令に抵抗し、皇室護持・神社護持を目的とした組織です。

その意味において「保守」陣営なのは間違いありません。

しかし、軍部・内務省神社局・神祇院を手厳しく批判した葦津珍彦が理論的指導者として仰がれていたことが象徴するように、「日本を戦前に戻そう」という主張はしていません。

つまり「皇室の伝統と神社は護持しないといけないが、神社や日本を戦前の状態に戻そうとは思わない」というのが神社本庁のスタンスなのです。この辺は葦津珍彦の著書を読めばわかります。

 

しかし、人間という生き物は無意識に楽をしたいと思うものであり、複雑なものよりも単純さを好みます。難しい本は読みたくないですし、何が善で何が悪かわかりやすく示してほしいと思うのが普通です。

純化したいので「戦前の〇〇は残すべきだが、××は反省すべき」よりも「戦前は間違っていなかった」、「Aさんの主張のうち①は正しいけど②は賛同できない」よりも「皇室を敬っている政治家の政策は全て正しい」という思考に陥りやすい。

この単純化は現在の本庁問題の根底にもあると思われます。

 

その結果として、葦津珍彦や本来の神社本庁の方針を極端に単純化した見解が神社本庁関係者から出てい来るので、第三者から戦前回帰を目指しているように見える訳です。

 

最後に右翼と左翼という区別も「単純化」の産物であって、皇室は護持すべきで日米同盟を強化すべき、皇室は護持すべきだが親米は反対、親米だが皇室は解体すべき、皇室は解体すべきで親米にも反対など様々な意見があるのを右翼左翼の2つだけに分類するのは論点整理の方法としては非常に乱暴であり、あまり用いるべきではないと私自身は思っています。

 

【参考文献 】

村上重良(1970).『国家神道』.岩波書店.

鵜飼秀徳(2022).『仏教の大東亜戦争』.文芸春秋.

葦津珍彦(1987).阪本是丸註.『国家神道とは何だったのか』.神社新報社.

新田均(2014).『「現人神」「国家神道」という幻想ー絶対神を呼び出したのは誰か』.神社新報社.