神道者とは
仏教の信徒を仏教者、キリスト教の信徒をキリスト者と呼ぶことがあります。そのため神職、総代、氏子など神道を信奉する人々の総称として「神道者」という表現を使いたくなってしまいますが、「神道者」という表現には特別な意味があるので総称として適切ではありません。
この「神道者」については井上智勝氏が詳しく解説していますので、興味のある方は井上氏の論文をお読みいただければと思います。
さて「神道者」とは広く神職を指す場合もありますが、狭義としては江戸時代の都市部に出没した不良神職を指す名称でもあります。いきなり玄関先に現れて大祓を唱え始め、金品を寄付するまで動かない。金品を奉納すると手に持った神楽鈴を鳴らして家人をお祓いして立ち去る。他にも宗教活動を建前に眉をひそめるような活動をおこなっていたと記録されています。神道者は基本的に神社に所属はしておらず、普段は長屋に住んでいました。そうすると「ニセモノの神職だろ」と考えてしまいますが、吉田家は彼らにも許状(神職資格)を発給していました。吉田家が許状を発給したことについては、当時の貧困問題、貧困層の宗教者の統制なども考慮せねばならないので、安易に吉田家を批判すべきではないでしょうが、民衆に「神道者」が標準的な神職だと認識されてしまうと神職全体の社会的信用を著しく損なうおそれがあります。実際に当時の人々は「神道者」は金銭目的であることを見抜いており、人々から敬意を払われることはありませんでした。
【参考文献】井上智勝(2000).「神道者」.高埜利彦(Ed)『シリーズ近世の身分的周縁1 民間に生きる宗教者』.吉川弘文館.
神道人
明治維新によって「神道者」などの民間宗教者は一掃されます。修験道や民俗信仰を研究・実践する人々のなかには、明治政府の政策を不当な弾圧と非難する人もいますが、神道者のように社会から眉を顰められるような活動をしていたのだから活動を制限されてもしかたのない面もあったのです。もちろん民間の宗教者のなかにも誠心誠意、人々のために祈っていた人もいましたので、「民間宗教者」、「修験」、「神道者」、「梓巫女」などと十把一絡げに考えるべきではないでしょうが、近世の民間宗教者のなかには近代社会において尊崇を集めることのできない活動をしていた人々がいたのも事実として認識しておかねばなりません。
かくして「神道者」が一掃された後、明治20年代以降に神職が「神道を信奉する人々」の総称として用いだしたのが「神道人」あるいは「神社人」です。当時の神職が「神道者と呼ばれるのは嫌だ」という考えから「神道人」あるいは「神社人」という言葉をチョイスしたかはわかりません。この点は今後の研究を待ちたいと思います。
現任神職の皆さんに考えていただきたいのは、「神道人という自称をよく使用されるが、なぜ神道者ではダメなのか、なぜ神社人ではないのか?」という点です。こうした細部をきちんと整理することが国学であり、また教学の基盤だと思います。
石丸構文
都知事選挙に出馬した石丸伸二氏に古市憲寿氏が質問をして、それに対する石丸氏の対処方法が「石丸構文」としてインターネット上ではやりました。
全文は下記ブログが書き起こして下さっていますので、そちらをご参照下さい。
日テレ発『【東京都知事選挙】石丸伸二氏に聞く 今後の政治活動など 小池氏当確』の全文起こし|海野仲
さて、両者のやり取りを見て、数十年前に神職Aさんと議論したことを思い出しました。
- (A)「神道博士」さん、先ほどの発表のなかで我々をさして「神道者」という表現を用いられましたが、「神道者」は狭義には江戸時代の三都で物乞いをした民間宗教者を指す名称ですので、今後は「神道人」という表現を用いていただければと思う。
- (私)仏教者との対比で用いたのであり、誹謗する意図はありません。ご容赦願います。
- (A)我々の業界では「神道者」ではなく「神道人」という表現が一般的です。
- (私)ところで「神道人」の定義は何ですか?
- (A)我々つまり神職、総代、氏子など神道を信奉する人々の総称です。
- (私)そこには教派神道や神道系宗教団体の信徒は含まれますか?
- (A)神社神道に限定しながら「神道人」と呼称するのはどうかということですか・・・おもしろいご指摘ですね。
- (私)「神社人」という用例もありますね。
- (A)たしかに神社神道に限定するのであれば、「神社人」の方が適切かもしれない。どうして「神社人」ではなく、「神道人」が主流になったのかはおもしろい問題ですね。
この議論を通じて、私は何気に使用していた神道者という表現に気分を害する人がいることを知り、「神道者」について論文を読むきっかけになりました。Aさんも「神道人」と「神社人」について考えるきっかけになりました。このように学問上の議論は真剣勝負ではありますが、相手をつぶすために行うのではなく、相手の知にこちらの知をぶつけて双方に新しい知(学び・気づき)を生むためのものです。
そのためインターネット上で散見される「論破」や石丸構文を是とする姿勢は新しい知を生まず、学問上の議論にとって百害あって一利なしのものだと言わざるを得ません。
ちなみに両者のディベートを私が審判するなら古市氏に投票します。下記リンク先で詳しく指摘されていますが、古市氏は「政治家」の定義を聞いているのに、石丸氏はすでに答えたとして回答を拒否しています。しかし、両者の議論において石丸氏は「政治屋」の定義しか示しておらず、「政治家」の定義については一切言及していません。質問のボールを返せておらず、主張の根幹をなす用語の定義を示せていない。それが理由です。
古市憲寿氏はなぜ定義とういう言葉を使い続けたのか?|飲んだくれ
政治の世界やマスコミは学界とは違って揚げ足を取りが多いと聞きますので用心したのかもしれませんし、事前打ち合わせなど視聴者の見えないところで両者の間に「政治家」の定義についてやりとりがあったのかもしれません。しかしながら「政治屋ではなく政治家」というのは石丸氏が主張してきた点だった訳ですから、定義を示した上で古市氏と議論すれば石丸氏にとって改善点が見つかったり、視聴者に自身の目指す政治家をアピールする機会になったのではないかと思います。
そもそも政治家というのは自身の掲げる主義主張について問われたら「それは他所ですでに言った」ではなく、何度でも説明するのも仕事のうちだと思うのですがね。