神道研究室

在野の神道研究者が神社の問題に鋭く切り込みます

神社はお願いするところじゃないの?

神社でお願いをしてはいけないのか?

ネット上で「神社ではお願いをすべきではない。神社は感謝をするところだ」とか「神社ではお願いをするところではなく、誓うところだ」という意見を見かけます。今回はこれを学問的に見ていきましょう。

エビデンス

神社でお願いをしてはいけないという教えは古文書には見られません。逆に有名な武将が神社に戦勝を祈願する文書はたくさんあります。

武田信玄願文 | 上田市の文化財

この願文は特に有名なもので、はっきりと「勝つことができたら寄進するので勝たせてくれ」というストレートなお願いのしかたです。

ちなみに、ライバルの上杉謙信大義名分を主張しているので、願文にはその人の性格がよくあらわれます。

他にも昔の願文が残っていますので、「神社にお願いごとをしてはいけない」というルールはないことは明らかです。

祝詞の構成から見る

祝詞がどういう文章構成になっているかは先学が分類しています。

研究者によって表現に若干の差がありますが、代表的な分類を挙げますと

  • 発句(文章のいいはじめ、代表的なのが「かけまくも畏き」)
  • 神徳句(神様の徳を称える)
  • 由縁句(神社や祭典の由緒を述べる)
  • 感謝句(神様に感謝の言葉を述べる)
  • 装束句(お祭りなので社殿の装飾し旗を立てていますよ、など)
  • 作行句(地鎮祭などにおいて、草刈り初めをするなどの動作を述べる)
  • 献供句(どんな神饌をお供えしているかを述べる)
  • 祈願句(お願いごと)
  • 誓願句(ちかい)
  • 結句(文章のおわり、代表的なのが「かしこみかしこみももうす)

このように祝詞の文章構成においても「祈願」を認めています。

というよりも、祝詞の構成では「感謝」も「お願い」も「誓い」も同時にやっていいことになっているので、そもそも一つにしぼる必要はないでしょう。

なぜ「お願いはするな」という説が生まれたか

こういう意見の源流をたどっていきますと、幾人かのインフルエンサーにたどりつきます。その人の実体験が「お願いをすべきではない」という根拠になっているようです。

たしかにその人はお願いするのをやめて感謝だけをするようになって精神的な平和や幸福を得たのかもしれませんし、その幸福感を広めたいということは否定しません。

しかしながら、学問的にみて、神社に詣でてお願いごとをしてきたというのが動かざる歴史的事実です。

そもそもインフルエンサーの成功法則が他の人にも適用できる保証はありません。

私は万人に共通する「成功する参拝作法」なんて存在しないと思います。なぜならば参拝とは人と神とのコミュニケーションであり、人によって神との関係は異なるからです。

例えば、氏子が氏神を詣でるときに年1回参拝している人であれば「いつもありがとうございます」でいいでしょうが、今まで参拝していない人であれば「氏子なのに今まで参拝してなくても申し訳ありません」から始めた方がいいでしょう。実際に、祈願主が総代であれば「常より総代として仕へ奉る」と添えたり、総代のお孫さんのときも「総代○○の孫にして、父〇〇と母〇〇の愛児」などと祈祷を受ける人が神社とどういう関係なのかを詳しく述べるなどの配慮をしている神職も存在する。

このように神と人の関係性が参拝の前提にあるのだから、インフルエンサーの「私はこの参拝方法で成功した」という法則は、その神社の神とインフルエンサーとの関係性においてベストな方法なのかもしれませんが、すべての人にとってベストな方法なはずがありません。だからインフルエンサーの成功例をそのまま真似するのではなく、参考になるところだけ取り入れて自分なりの神様との付き合い方を模索した方がよいでしょう。